梅ヶ畑村誌

昭和7年
1932に発行された「梅ヶ畑村誌」をさゞれ銘砥さんから預かった
ので抜粋して紹介したいと思います。
本文は旧字体と、一部漢文風に書かれてありますので、読みやすいように
現代語風に読み下していきます。従いまして、文責は田中清人にあります。
また、文中の茶色の文字は田中清人による補足です。
間違いなどありましたらご指摘頂くと助かります。



           







序文

昔からこの梅ヶ畑村は紅葉の名所として世に知られている他、早くから国史に
現れ、特に古来から皇室の恩寵を受けている。また忠臣や名僧がこの地に住み、
史跡として保存するべき所や後世に伝える史実がひじょうに多い。
たまたま京都市制定に伴い、この梅ヶ畑村は昭和6年4月1日より京都市に
編入され、高雄学区として新しく誕生した。この時に当たり、詳細正確な村誌を
編纂して、これを永く後世に残すことは、最も意義があり、時機を得たもので
あって、後日これを為すことは不可能と思われる。従って、梅ヶ畑村槇尾
西明寺の文学士、高岡義海氏に編纂の一切を依嘱
いしょくすることとした。
氏は博学で達識・崇高な人格者であり、昨年8月稿を起こし、今年3月に
出来上がったが、その間8ヶ月、専ら
もっぱらこの事に当たられ、時に臨地
を訪ね、時に古記録、古文書を究
きわめ、たびたび図書館に通い、
また古老から話を聞き、早朝から夜遅くまで励まれ、氏の卓越した見識と
豊富な薀蓄を傾倒してなお一層の完璧を期せられた。そのことを







ここに記して、高岡義海氏の絶大な努力に対して深い感謝の意を表する次第で
あります。どうか読者の方々はこの意を汲んで下さり、梅ヶ畑の由来を知り、
また国史研究の資料としてもらえるなら幸甚であります。






















この頁は「菖蒲しょうぶ谷」から読んでいきます。

菖蒲谷

群書類従で和気
わけ氏の系図を見てみると、和気清麻呂公は民部卿
造宮大夫であり、その子の広世と真綱の兄弟は、前者は文章博士大学頭、後者は
参議である。そうして真綱の孫である時雨は医道に勤め医博士として有名になり、
侍医針博士となり典薬職に就いた。それ以来、和気家は代々典薬頭に任命され、
徳川時代(江戸時代)の初期、寛永年間
1624年〜1644に瑞寿(という人物)
が医業で有名になり、将軍の病気を治療した功績で1500石の禄を与えられ、
朝廷と幕府に仕えるようになり、それ以後その立場は続いたという。
延喜式の巻三十七を見ると、「5月5日に菖蒲の生蒋
(真菰まこものことか?)
を進呈した。また黒木の案四脚、六両、黒葛四斤を○頭以下共に持って
寮に入り、







進呈した後退出した」と記されている。また、仁和元年8855月25日に
書かれた「年中行事抄」を見ると、「5月5日に典薬寮が菖蒲を供える際には
○輿で供える」と記されている。さらに時代が下って、鎌倉時代中期の
中原師光
(もろみつ1204年〜1265年)の「師光年中行事」(参照)では
「5月4日、典薬寮、菖蒲御輿
みこしを供える」と記されている。
さらにその後の永正十四年
15175月5日の日付のある御綸旨には、
梅ヶ畑供御人等「5月5日 菖蒲御輿以下、調進をするので諸商売、公事
などは先規に従って免除する」旨が記されている。

   
参考までに、この絵は江戸時代初期(寛文後期・1670年頃)に海北友雪によって
描かれたもので、「菖蒲売り」の絵です。
五月五日の端午の節句のときの飾り物として使われたもので、菖蒲御輿に飾られる幟(のぼり)や人形も一緒に売られています。


さらにその後、徳川時代の明和八年
1771卯年一月に大隅行事官に差し出した
明細書には「5月2日調進」の最初に、「御菖蒲の足木、杉皮付き二十二本」と
書き出されている。これらの文献に目を通して、我が梅ヶ畑村と高雄、和気家
との関係を顧みると少なくとも次のような推定はできると思う。即ち、平安時代
の中頃には、現在の菖蒲谷と呼ばれる地に菖蒲が栽培され、5月5日にその菖蒲
は梅ヶ畑村の人の手によって、典薬寮を通じて宮廷に献上していたのではないだ
ろうか。よって、その栽培地域を菖蒲谷と名付け、この名は鎌倉時代初期には
すでに一般に広く通用していた。
東鑑(吾妻鑑)「六代捕」では、菖蒲谷池は遥か後世、徳川時代の寛永の頃、
大覚寺法親王の命令を受け、吉田了以の二人の子らが、亡父の遺志を継いで
造ったものである。それから、小野の郷
さとにも菖蒲谷と呼ばれる場所がある。
葛野郡誌には「小野、並びに大森に菖蒲谷と称する場所があり、その谷から
毎年5月5日、(菖蒲を)刈り取って献上する」と記されていて、その証拠
として嘉永元年
(幕末)1848の日付のある菖蒲献上用の会符一枚返上書を
挙げている。

次は43頁の「砥石山」の章を読み進めます。











この頁は「砥石山」から読んでいきます。

砥石山

寛政十年1798に出版された山海名産図絵巻二では、「諺ことわざでは
砥石は王城から五里
(約20km)以内の地で産出すると言われている。昔
奈良県の春日山の奥で採れた白砥は、現在ではその跡だけが残っている。
現在、京都の鳴滝、高雄に産出する砥石
(仕上砥石)は天下に誇れる上品で
他に類を見ない。これらの砥石を内曇、または浅黄と呼んでいる」とある。
日本では、平安奠都が京都の高雄や鳴滝で砥石が産出されるようになった
直接的な原因のように思われるかもしれないが、そうではないだろう。
平安時代の中頃以降は浮浪の民や群盗の数が増え、世の中は乱れていき、
関東では平将門の乱が起き、関西では純友を統領とする海賊の横行があった
参照)。将門の乱の時には、高雄の不動明王が将門を調伏するために
関東に遷座し、乱が終わるとその地に留まった。それが現在の成田不動で
あるという伝説があるが、現に高雄山中には、「成田元不動」と彫られた
石標がある。この承平・天慶の乱は地方の戦乱だが、京都で起こった
ものに保元・平治の乱がある。これら戦乱が起こる度に台頭してきたのは
武士階級で、反対に勢力を失っていったのは







貴族階級である。従って、定額寺や和気家の檀越寺であった高雄山も
乱世の進展とともに衰微、荒廃が甚だしくなっていたものと思われる。
こうした武士階級の勃興は、当然、砥石の需要を増加する。
ことに京都への奠都
てんとと砥石発見をつなぐものに六衛府の制度がある。
六衛府とは左右の近衛府、左右の兵衛府、左右の衛門府のことで、
その兵の数は2500人ほどあり、宮城や帝都の守護、護衛を
任じられていた(参照)。尚、白河法皇の時代には、上下北面の武士が
置かれていた。以上のようなことが原因、機縁となって、かなり早い頃から
砥石山は発見、採掘されたと思われる。ことにそれが菖蒲谷付近から
始められたという伝説と併
あわせ考えると、ますます興味を覚える。
いつの頃からかは判然としないが、「砥石山由緒書」という文書
もんじょ
我が梅ヶ畑村に保管されている。これは現在この村の口碑
(言い伝え)
残っているいろいろな伝説と密接な関係があると思われるので、
少々長いが全文載せておきたい。


京都葛野郡梅ヶ畑郷の本間藤左衛門、藤原時成の由緒
並びに砥石根元御免
(許可)の事

本間家の由緒を調べてみると、梅ヶ畑村の長百姓である。そして嘉応年間

1169年〜1171
に世帯を倅せがれの藤之進に譲り、隠居している。
昔、45聖武天皇の時代、神亀年中
724年〜729に高雄山の神護寺の
伽藍を和気清麻呂公が建立した
(現在の歴史認識では時代が合わない)。それ以後、
代々







本間家は高雄山に出勤を仰せ付けられていたが、いつの頃からか高雄山も
零落していき、仕方なく藤左衛門は御所へ奉公に出た。それは侍奉公の
紹介があったためで、3年ほど真面目に勤めた。翌年3月には北面の武士
も同様に勤めるようになった。
上西門殿の北面にいた遠藤武者盛遠という武士は、藤左衛門の真面目な奉公
態度が気に入り、盛遠の計らいで藤左衛門下北面に昇格し、
本間藤左衛門尉藤原時成という官名を授けられた。
その盛遠は渡辺党の遠藤左近将監の盛光という上西門院の北面の武士の
一男(子供)である。盛遠は、母親が歳を重ねているにもかかわらず
子供が授からないため、長谷寺の観音へ願をかけて儲けた子だという。
その時、父親は61歳、母親は43歳であった。その母は難産で亡くなり、
父は赤子を抱いて嘆いたが、便宜を思い、縁を頼って丹波国保津庄の下司
春木二郎入道道善という人物に養ってもらうこととなる。
その父盛光にも三歳の時に死なれ、盛遠は天涯孤独の身となった。
その後13歳になる年、一門にいる遠藤三郎瀧口遠光という人物に呼ばれ、
元服をさせられたのでそれに従い、上西門院へ勤めた。
盛遠は顔立ち、体格がよく力強く、心持も武芸も勝れていた。
道心も水が流れるように常に母が難産で亡くなったと言っては泣き、
父のことを想っては悲しんだ。18歳のとき、愛
いとおしい女
(亡くなった母のことか)
に後れて髪を切り、法体遁世する。
修行は金剛八葉の峯から始め、熊野金峯大嶺、葛城、愛宕山、高雄、
嵯峨嶺など、日本に訪れない州は一つもなく、霊地7日、27日、
100日籠もりを行った。その間、13年間はある時は断食、又ある時は
持齊を行った。これによって以前の御所にも惜しい人物と称讃する人が多く、
僧名を文覚とした。ある時、文覚が高雄山の神護寺の場所で山々の奥を
訪ねたのは、一人の僧から、高雄山を再興、建立するつもりなので
尋ねたいことがあると問われ、それに返答するためであった。
その後、寿永二年
1183年(平安時代末)閏十月から信濃(長野県)






源氏の木曽左馬頭義仲が京都で狼藉を行い、御所に火を付け禁裏を騒がせて
いた頃、法皇はじめ鳥羽院も法住寺まで行幸した。
騒動のことは剰江法住寺にも聞こえ、すでに諸卿が危ういという噂も
聞かれたので、北面のである藤左衛門尉 藤原時成が朝廷に言上した。
言上の内容は、木曽義仲が騒いでいるので、秘かに身を隠してはどうでしょうか。もしそうなされるなら、洛西
(都の西)の山、嵯峨奥小倉山の麓に菖蒲ヶ谷という、
四方に屏風を立てたような谷があるので、その地へ
案内致します。
というものであった。法皇はすぐに西に向かい、嵯峨の遍照寺で休息している間、
時成は梅ヶ畑の平岡という所へ打越し、密かに村々へ伝えたところ庄屋から、
村々家別に人足を出し、あるいは雇ったりして人数を集め、御殿を造営した。
(次の「一羽音主上初」は何かの譬えと思われますが判然としません)
そうして公卿たちは残らず行幸した。さすがの天君といっても山奥の不自由は
恐ろしいものであろうが、時成の功績により軽減された。そのときに新築造営
された御殿は善妙寺村内に奥殿、畑殿、角殿、堀川殿というものであった。
行幸の道行は中島村と一之瀬村を御所道とし、平岡村表口と呼んだ。
その頃は軍中の時節で、寮から付き人を得ることができなかったので、
四ヶ村から貢米を、他の四ヶ村から調進役を集めた。そして、家別に
女たちが白米を清潔な白木綿の袋に入れて昼夜を問わず運んでくれたので、
共御人と呼ばれるほどだった。
その後、寿永三年
1184の四月に改元され元禄となった。その年
木曽義仲は清和天皇十代左馬頭義朝の六男である蒲生冠者範頼、と九男の
九郎判官義経の両大将軍により大津浦
(滋賀県)での粟津原の戦いで負け、
滅ぼされた。そして、従四位 下行前右兵衛権左(参照)源頼朝が
寿永二年
1183八月に征夷大将軍となり、文治元年1185には六十六ヶ国の
惣追捕使となった。
また、元暦
げんりゃくの頃1184年〜1185より王地をはじめ諸方の
軍騒動が激しくなったので、梅ヶ畑村も刀長(太刀
たち)や槍、その他
武具の準備をした。その研磨などを法皇自らが行うので






藤左衛門尉は菖蒲ヶ谷で以前から見当を付けておいた砥石山があったので、
それを掘り出し、地下北面侍の下部に持って行き、刃物を研いだ意見を
公卿衆に伺ったところ、たいへん優れた砥石であると評価を受けた。
そのことを山主に伝え、倅
せがれの藤左衛門に言い付けて日雇い人夫を多く雇い
砥石を掘り出して諸方へ広めたところ、武家からも注文が入るようになった。
そこで早速、将軍源頼朝に砥石を紹介してもらうように高尾の文覚上人に
頼んだところ、すぐに幕府の研ぎ師が見分に来、良い砥石だと評価した。
それ以来、菖蒲谷は砥石の名産地として有名になった。
ほどなく都も村々も騒動が収まったので、文治年間
1185年〜1189
後鳥羽上皇が内裏へ向かうことになった。その途中の道の警固はじめ、
月卿雲客六位蔵人、その他地下上北面、下北面、以下侍などが、以前の
行幸とは違って整然としていて、美しいものであった。それは元上皇の
行幸を彷彿とさせるもので、それには時成の功績が少なからずあったものと
思われる。
文覚上人は先の砥石のことを再度源頼朝に口上書で次のように願い上げた。
「砥石を掘っているのは城崎葛野郡梅ヶ畑村の長百姓である藤左衛門と
申す者で、今は家督を倅に譲り隠居の身であります。慈悲深い性格なので
平武士から下北面まで昇格し、それ以来ますます忠信は勝っております。
ときに、後鳥羽上皇様をも彼
(藤左衛門)が導いて菖蒲谷へ行幸の案内を
致しました。その褒美として本間藤左衛門尉時成とその倅である藤左衛門に
礪石師元闢棟梁という号を頂戴致しましたことは大変光栄であります。」
そのことにより、鎌倉将軍である源頼朝は梅ヶ畑の長百姓の本間藤左衛門
藤原成延に対し、建久元年
1190に改めて「日本礪石師棟梁」という号と
名字・帯刀の許可を与えた。
ある時、砥石山付近を内裏の女が子供を二人連れて通っていたので、
事情を尋ねると、平家の三位中将の北方の者であるという。
平家が滅亡したので、親子三人でしばらく山へ隠れ、二人の子供の行き先を
探して






山々、谷々を巡っているところ、どうかそのような家があったら案内してほしい、
と嘆願され、仕方がないので菖蒲谷を先案内した。
案内したこの人物は権亮であったので、三位中将維盛の子供である六代目君と
姫君とを連れて野の果て、山の奥までも伴って行ったが、二人の子供は
平家の跡継ぎなので、鎌倉将軍源頼朝公にも伺いを立てるべきかとも思ったが、
あまりにも面倒なことだったので、取り敢えず道案内をした。
その後、高雄の文覚上人にもこのことを伝えると、上人は配慮をしてくれて、
近辺に草庵を建て、尼僧修行を始めたことにして、菖蒲からおよそ北に2km
ほど離れたところに征夷大将軍の武運長久の祈願所として建てられている
神護寺に身を寄せさせた。そこは真言一宗の霊地で、その社は鎌倉将軍
源頼朝にも一目置かれているほどで、そこの僧に落ち延びてきた子供を付け、
弟に配慮してくれないかと伝えた。通達約の役人は早速高雄に来て、上人は
承知していることを頼朝公へ伝え、子供は上人の弟子となった。
また、御所から五月五日に使う菖蒲の御輿の足木、七夕の紫獅子口、御餝木
などを用意するように要望があった。
また、建久九年
1198三月三日、土御門天皇が即位されたとき、獅子、狛犬の
番を勤めるよう命じられたことも付け加えておきたい。
そもそも、本間氏は内藤家の出である。弘仁二年
811嵯峨天皇の時代、
空海上人が高雄に居られる時、この寺には昔から本間氏がいて代々忠臣であり
、この高雄山の譜代勤めもしているので、空海上人は内藤姓を本間と改名
なさったそうである。それ以来、代々内藤氏のことを藤左衛門と呼んでいる。

建久十年
1199二月吉日 上西門殿北面にてこれを記す。      






以上、紹介した文書の他に江戸時代に諸所へ差し出した由緒書きの写しが
数通ありますが、先に紹介したものと大同小異のことが記されています。
先の由緒書きを読んでみると、年月は建久十年
1199二月吉日となって
いますが、文章の書き方は明らかに後世の江戸時代
(1600年代以降)のもので
あります。従って遽にわかには信用できませんが、この文書は何らかの必要
からその当時、梅ヶ畑村に言い伝えられていたいろいろな伝説、あるいは
書物などを集め、他におそらく源平盛衰記などをも参考にして書かれたもの
であると思われます。
そしてこの文章の中、砥石山に関する伝説の内容を見ると、
(1)菖蒲谷付近で砥石が発見され、採掘され始めた事、
(2)砥石は寿永年間
1182年〜1184以前に前もって発見されていた事、
(3)砥石の採掘権を藤左衛門尉時成が確保した事などが分かります。
寛喜
かんぎ二年1230前妙尼寺の四至を定める太政官符に「西は砥取山の
峰尾筋を限る
(砥石が採れるのは西は砥取山の峰まで)」とあるので、
この頃すでに菖蒲谷東部の山々から砥石が採掘され、砥取山という名の山さえ
あったと思われます。このことはその後、諸書に古歌として、






「高雄なる 砥取りの山の ほととぎす おのが(自分の)刀を
研ぎすとぞ鳴く」
の歌を掲げていることから想像できます(参照)。
採掘権の所有者と言われる藤左衛門尉時成は、源平盛衰記(巻34)に
「京の北に居る橘内判官公朝、藤左衛門尉と時成の二人は、木曽の狼藉(義仲)
による法住寺での合戦のとき、御所の回禄を伝えるために
昼夜を問わず下向した。」と書かれてあります。また、ある伝説では
「寿永二年
1183、内田五郎道勝が高雄山に居住し、道勝は平家追討のため
木曽義仲軍に属した。その時、後白川上皇を守護している際に木曽の乱軍を
避けるため、」守貞親王を守護し、御鳳輦を梅ヶ畑村に向けた。」と言い、
「その功績によって砥石山の諸山地を賜った。」とし、
その子孫が徳川時代に
この梅ヶ畑村に住んでいた郷士、内田判兵衛であるとしています。
これらの説のどれが正しいのかは、この他に比較するための有力な文献ないので
判然としませんが、早くから発見され、採掘されていた砥石山は、寿永の頃には、
北面の武士がその採掘権を所有していたのではないかと思われます。


後鳥羽上皇と梅ヶ畑村

百錬抄や源平盛衰記に記されているところでは、寿永二年
1183
十一月十九日、木曽義仲は一千余騎を率いて後白河法皇の院の御所である
法住寺殿を襲ったところでは、「豊後少将宗長がただ一人後白河法皇に
御供して南面の門から出た。






木曽の手兵、八島四郎行綱は京都五条内裏へ入ることを要請し、入進した。
後鳥羽天皇は京都七条の侍従である信清と紀伊守範光だけを供にして池上に
避難し、夜になって母親は七条亭へ
遊行した。」とあるので、後鳥羽天皇は
この時四歳ということになる。百錬抄では、後鳥羽天皇は翌日二十日には
避難先に戻っていて、二十五日にはそこで天台坐主の議定を行い、木曽義仲の
要請を受け、平家の没官領をすべて木曽義仲に与えて、京都での狼藉を
止めさせるるように命令している。二十八日には義仲の要請どうりに40
あまりの公卿を解雇している。また、翌年、元暦元年
1184七月二十八日
には、太政官庁で後鳥羽天皇の即位式が行われている。
これらの記述から推察してみると、先に挙げた「砥石山由緒書」に寿永二年
1183、木曽義仲が法住寺殿を襲い、法皇と主上が菖蒲谷に避難した 
云々、という記事は信じられない。まして、「菖蒲ヶ谷に於いて、土御門天皇
の誕生の際に五月五日、菖蒲の足木○を初めて調進した」という
享和三年
1804年五月の由緒書にあることは何の意味か分からない。
何故なら後鳥羽天皇は寿永二年1183は4歳、翌元暦元年は5歳であり、
土御門天皇の誕生は建久六年
1195十二月二日であるからであります。


承久の乱と梅ヶ畑村

史料通信叢誌の「藤原信実朝臣墳墓」の条に、「信実朝臣は承久の乱に際し、
後鳥羽上皇に仕え一旦栂尾山に遁れたが、上皇は島流しにされたことで
世を儚み
はかなみ、栂尾山で病死した。」と記されていてる。






また、同書「梅ヶ畑の頂袋」の題のなかでは「これは承久年間のことであったと
思われるが、栂尾の明恵上人の所に、天子仙洞、摂政、関白をはじめ他多くが
落ち人となって隠れ住んでいたが、男は上人の許に集まって王宮を守護し、
女は足に任せて諸国へ往来し、様々な物を集めて来て、御供よりも下の者も
朝暮の儲けに充てていた。その際、衣の片袖を解いて旗袋の形に縫って受けて
いたが、その袋は王宮に勤め仕えている印になっていた。その後は、この袋さえ
持っていれば、関を通ってどこにでも自由に行くことが出来たということである。
そのことを同書は「その袋の量を推測してみると、布は一幅
(約36cm)で、
長さは鯨尺で二尺三寸
(約87cm)、これを二つに折って一尺一寸五分は
大尺の一尺四寸あまりに当たり、それを縫い上げると一尺三寸あまりとなる。」
としている。また、「後鳥羽院のの袖は長さが二尺
(約76cm)あり、
これを三等分して、その三分の二は一尺四寸六分
(約55cm)余りに当たる。
これは前述の片袖とほとんど同じである。このことから、後鳥羽院の小袖の
量と合うのは不思議ではない。」と述べている。この「梅ヶ畑の頂袋」を
書いた人は、栗原柳庵という人で、考証に明るく、明治六年に亡くなり、
その墓は栂尾山にあるという人である。
承久の乱当時の有様を、百錬抄増鏡吾妻鏡承久記などの書物から抜書き
してみると、「承久三年六月八日、(中略)去る六日、摩免戸
まめどの合戦で
官軍が敗北したとの噂を聞き、人々の顔色が変わった。御所の中は騒ぎとなった。(中略)次いで主上(天皇)が比叡山に行幸。(中略)主上が上皇、坂本、
梶井の御所に入った。六月九日、上皇が坂本に入った。六月十日、主上が
三院、梶井御所から高陽院殿へ戻った。六月十四日、関東の






武士が宇治路を打ち破って京都に入り、六月十五日、武士らが皆乱入した。
同日午前四時頃、秀康胤義らが四辻に集まり、宇治・勢多の両合戦で
敗北したが、道の上を塞いで、すでに都に入ったこととした。このように、
たとえどのようなことがあっても、更に死者が出ることは免れることが
できなかったという噂であった。土御門院と新院、両親王は加茂、貴船
などの辺地に遁れた。後鳥羽院は公卿六人の交名を記して武蔵国に下った。
六月十九日、後鳥羽院が武士に取り囲まれて四辻殿へ御幸。
新院は大炊殿へ帰還後、西宮本所へ渡った。六月二十四日、後鳥羽上皇は
武州(武蔵国)などからの要請を受けて、合戦の張本人の公卿などを六波羅に
渡した。七月六日、武蔵太郎、駿河次郎、武蔵前司らが数万騎の軍勢で院の
御所、四辻殿に集まり、鳥羽殿の方に移ったという噂が流れている。
七月八日、後鳥羽上皇は道助を戒師として出家した。後日、絵師信実朝臣
呼んで、後鳥羽上皇の肖像画を描かせた。
七月十三日、後鳥羽上皇は島流しで隠岐国へ遷った(参照)。これらの記述に
よれば、承久の乱の最後は後鳥羽上皇が隠岐の島へ島流しになったが、
七月十三日までの間には梅ヶ畑村に行幸する日時はなかったようである。
しかしながら、承久の戦乱のときに官軍方の公卿や武将がこの村に難を避け
栂尾の山々へ逃れ隠れたことは数多くあったことは事実である。
明恵上人の高弟、喜海が書き記した「上人伝記」の下巻に、「承久三年の
大乱のとき、明恵上人が栂尾山中に京方の人々をかくまっていることを知った
秋田城介 景盛は、山に探しに入った。景盛は狼藉の末、上人を大将軍泰時朝臣





の前で処罰しようと上人を捕らえ、先に追い立てて泰時のいる六波羅蜜へ
連れていった。泰時はこれを見て大変驚き、急いで上人を坐に招いて部下の
無知による失礼を詫びた。秋田城介景盛は過ちを犯してしまったと大いに悔やみ、
これが機縁となって、その後上人の弟子となり、名前を大蓮房覚知と改め、
そのことを記録した。また、この承久の乱で戦死したり、関東で捕らえられ、
斬られた公卿や武将の後室の妻や妾が、亡くなった夫や子のために明恵上人に
従って出家し、平岡という所に善妙尼寺を建立した。
この善妙寺は現在も残っていることはすでに述べたとうりであります。


明恵上人と梅ヶ畑村
承久の乱の際には、このように多くの官方の人々が梅ヶ畑村に避難、あるいは
止まり住んだ。その原因は地勢の関係もあるだろうが、直接の原因は明恵上人
にあります。上人はすでに建永元年
1206、後鳥羽上皇の院宣(いんぜん・命令)
により、栂尾で華厳宗中興していた。それ以来、上皇の信頼を裏切ることなく、
その時代の上卿近衛基通九条兼実をはじめ朝野の貴顕紳士たちは、
名月記による「世の中の様々な位の人々が、仏がこの世に存在していた時の
ようにその場に列をなしていた」ような有様であったので、自然にこのような
戦乱の時、人生の非常時には自ずと足が栂尾の方へ向いたものと思われます。
尚、少し後のことですが、正二位・前権中納言、富小路盛兼は一之瀬外畑
とのはた
に歓喜園を開き、出家・入道してここに幽棲
(世間から離れてひっそりと暮らす)
しています。
また、近衛家実公も栂尾の山麓に幽寂の住まいを構え、云々・・以下略




             



砥石山
「京都御役所向大概覚書」には、本阿弥家に下賜された砥石山の事、として、
山城
(京都)鳴滝村、同国中野村、同国高雄領、同国栂尾領、同国梅畑之内
善妙寺村、これら五ヶ所の砥石は昔は砥石屋五左衛門の先祖、道金という者が
掘っていたが、本阿弥家が必要なときには売り渡し、運上銀を払っていた。
慶長十二年
1607徳川家康の時代に、本阿弥光宝不明、光悦のことか?)
に砥石山と運上銀を与えられ、その後代々本阿弥家が支配することとなった
参照)。
砥石山拝領の朱印がないのは、本阿弥家代々の継ぎ目の報告の際に、幕府から
砥石山の権利を与えるという認証が与えられたためである。右に挙げた砥石屋
五左衛門は鳴滝村の本阿弥三郎兵衛に毎年運上銀十二枚を払い、「砥指遣」
(刀剣を仕上げる艶砥のことか?)という残り砥は五左衛門が売ってもよい
ということになっていた。砥石については、剃刀
カミソリ砥や細工に使う浅黄、
上引、下引、さい紫、内曇といった砥石は本阿弥家が必要な分を提供した。
このことは宝永五年
1708京都平岡村の音戸山が禁裏山になったときに、先の
五山(砥石山)も禁裏となった。
参照:後半の雍州府志に同様の記述あり)
と記されている。宝永五年1708の先の調書によれば、砥石山の総括的支配権
慶長十二年1607以来本阿弥家に





あることを明言している。さらに、それより約25年前の雍州府志では
本阿弥一家
は中古(室町時代)より公方家くぼうけ(将軍家)の刀剣研磨に
従事している。専ら鳴滝砥(仕上砥)を用いるので、近年あらかた掘り尽くして
しまい、今では高尾(京都北部)産のもので 間に合わせている。よって鳴滝山は
他人が濫りに採ることを禁じている。これを止山と謂う。」
と記され、また本阿弥家の総括的支配権を明言している。しかし、これは
総括的支配権であって、直接支配権でないことは、前記の役所覚書の文面から
明白である。では、梅ヶ畑村の砥石山の直接支配権は誰にあったのか。
元禄十一年1698二月二十八日の梅ヶ畑村の「入木山絵図」(参照)には
「丹波領砥石山梅畑支配」とあるので、梅ヶ畑村の砥石山の直接支配権は
この村にあったと言える。この直接支配権は丹波と梅ヶ畑村だけではなく、
鳴滝の砥石山の直接支配権も鳴滝村と争い、遂には梅ヶ畑村の勝ちになった
という言い伝えがある。これについては、菟芸泥赴の七に
「鳴滝に砥石を採る山がある。元々は高雄の山であるという主張と争っていた時
「高雄なる 砥採りの山のほととぎす 己が刀を研ぎす とぞ鳴く」という歌を
証拠にして、鳴滝は高雄所有の山になったということである。この歌は何処で
誰が詠んだものかは分かっていない、云々」(参照
このように、梅ヶ畑村の砥石山に対する、総括的支配者としての本阿弥家、
直接支配者としての梅ヶ畑村の関係は、徳川時代300年間を通じて保たれて
いた。そして神護寺日記によると、砥石山領有権の所有者である高雄山に
対しては天明八年1788以降、





本阿弥家より毎年銀十枚の運上銀が払われていた。
本阿弥家の系図には、「○妙本、菅家五条季長卿の弟の長春は後に薙髪して
僧侶となり妙本阿弥と称した。実は長春は従二位・高長卿が老年の時の庶子で、
後に長経卿の末子となった。足利尊氏に随従して刀剣奉行となった。
文和二年
1353五月三日、百余歳で死去。」とあり、刀剣鑑定に長じ、
足利尊氏に従って京都に移り住んだ。子孫は各大名へ出入りして、刀剣の鑑定、
研磨、拭いの三事(参照)に従事した。

菖蒲谷池 (京都府誌・下巻掲載の菖蒲谷疎水碑から)
「この池は大覚寺の法親王の命令で、吉田了以の姪(甥)である光長と光由に築かせた。
吉田了以(角倉了以)はかつて、親王と計画し、池を菖蒲谷に作って嵯峨方面の田畝の
灌漑に利用しようとしたが、果たすことなく死去した。寛永
1624年〜1644の初め頃、
二人の子がその遺志を継ぎ、堤を築いて水を蓄え、四十町に及ぶ田に灌漑した。」   
以上、概略を記す。






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