日本の歴史について その七

2008年2月、奈良県明日香村の真弓鑵子塚まゆみかんすづか古墳の石室が確認されたニュースが、各メディアで大々的に報じられていました。これまで発見されたなかでは最大級の石室ということで、古代史に興味のある人にとってはワクワクものでしょう。
これまで最大とされていた、同じ明日香村にある有名な石舞台を凌ぐものが発見され、さて誰が葬られているのかと興味をそそられている人も多いのではないでしょうか。私も大いに興味があります。
石舞台古墳には当時の、これもあまりにも有名な人物、蘇我馬子
(そがのうまこ)が葬られているとされています。同じ地にさらに大きな石室を持った古墳があったとなれば、こちらが馬子の墓なのではと野次馬は思ってしまうのですが、専門家によると、この古墳がある丘陵地域は、蘇我氏配下の渡来系豪族・東漢氏(やまとのあやうじ)の墓域だから、その首長クラスの墓だろうということらしいですね。当時の感覚では墓の大きさがその人物の大物ぶりを示すものなので、同じ地に主人の馬子より大きな石室を持つ部下がいた、などというのはちょっと考えられないのでは、と思ってしまうのは私だけでしょうか。それとも、石室の大きさ以外に何か基準があるのでしょうか、知りたいところであります。

もし真弓鑵子塚古墳に葬られているのが東漢氏の誰かだとしたら、馬子に使えていた東漢駒
やまとのあやのこまあたりでしょうか・・。このことにも興味が湧きます。もし東漢駒だったとしたら、馬子より大きな墓に葬られるだけの理由はあるとも云えます。このあたりの天皇家と蘇我家の関係はいろいろと複雑に入り組んでいて、私にはよく飲み込めないのですが、ざっと整理してみると、まず馬子の妹とされる小姉君おあねぎみが欽明天皇の後宮に入っています。これはもちろん政略結婚です。その間に生まれた一人を馬子の力により天皇に即位させます。これが崇峻すしゅん天皇ですが、馬子の甥にあたるこの崇峻天皇が馬子を嫌っているという噂を耳にして、馬子は東漢駒に命じて暗殺させ、代わりに姪を即位させます。これが推古天皇です。東漢駒は馬子にとってよい働きをしたのですが、その後、馬子の娘と密通をしたということで、処刑されています。ですから、馬子は死んだ東漢駒からは恨まれている。
このことは梅原猛氏や井沢元彦氏に云わせると、当時の人々は死者により怨念を受けるということを大変恐れていた、ということで、立派な墓に埋葬し篤く弔うということを行った。そういう理由で馬子の墓よりも大きな墓に葬った。ということは考えられますかね・・。




文明批評家の篠田暢之しのだ のぶゆき氏によると、丹波地域に竹林が多いのは薩摩隼人(さつま・はやと)の影響であるということです。隼人族は東南アジアから日本列島に流れ付いた一族とされていますが、時代はおそらく弥生時代だろうと推察されます。その時に、東南アジア原産の竹を携えてきたのだと思われます。それは、竹は生活をする上で大切なものだったからで、ということは目的を持って故郷を出たということになります。戦乱など、やむを得ない事情があったのだろうと思われますが、海上ルートは遥か昔の石器時代からあるわけですから、行き先も当然判っていたと思います。
こうして日本の九州南部に住み付いたわけですが、先住民族とは軋轢が続いたようです。時代によっては時の権力者に追われ、日本各地に移住させられたりもしたようです。ヤマト朝廷ができてからも抵抗したことは日本書紀の記述からも明らかです。
篠田氏によると、壬申の乱
(672年)の後には、勝利した天武天皇に協力しなかったということで、「化外の民(けがいのたみ)」として迫害、抑圧されたということです。そうして、都(奈良の飛鳥)の近くには住むことを許さず、今の京都周辺、近江(滋賀県)、それから丹波(兵庫県北部)に追いやったのだそうです。この地、丹波篠山(ささやま)の地名の由縁でもあります。昔は笹山とも書いたそうです。



先に述べた隼人は、古事記・日本書紀に登場する「海幸・山幸(うみさち・やまさち)」物語の海幸彦とされていますが、これは、山幸彦に屈服した海幸彦が犬のような格好をして吠え、踊ることを約束した記述から、それが隼人舞と思われるためだと思われます。古事記では「火照命(ほでりのみこと)、日本書紀では「火酢芹命(ほすせりのみこと)」となっています。一方、山幸彦は日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)ということになっていて、古事記では同じ読みで彦火火出見尊と書かれています。日本書紀では「火遠理命(ほおりのみこと)とされています。
古代丹波の地であった丹後の籠
(この)神社に伝わる国宝「海部氏(あまべうじ)系図」の内、海部本記(籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記)では海部氏の始祖は天火明命あまのほあかりのみこととなっていて、もう一つの祝部はふりべ系図(籠名神社祝部氏系図)では始祖が彦火明命ひこほあかりのみこととなっています。
天火明命も彦火明命も同じ人物とされていて、以前に少し述べた饒速日尊
にぎはやひのみことの別名でもあります。古事記では天火明命(饒速日尊)は海幸彦と山幸彦兄弟の叔父に当ることになっています。そうすると、隼人と饒速日尊は同じ民族、あるいは人種ということになるのでしょうか・・。共通しているのは、共に海人(あま)族であるというところです。また、海部氏あまべうじ系図が伝えられていた丹後の籠この神社の「籠」は「かご」とも読み、竹で編まれたカゴのことです。先に述べたように、隼人族は竹を日本に持ち込んだ民族とされていますが、当然竹の加工、細工も得意だったことは想像に難くありません。ここでも隼人と饒速日が繋がるのです・・。因みに篠田氏によると、京都山科の山科家は竹の専門職能を朝廷から命じられた薩摩隼人の一族だということで、このことは「山科家起来」という古文書に記録されているということです。
饒速日尊は卑弥呼と同様、古事記・日本書紀では抹殺されています。卑弥呼は全く触れられていませんが、饒速日尊は記載されているものの、できれば触れたくはなく、意図的に消し去ろうとしている感があります。このことは古代史の専門家の多くが指摘していることでもあります。その他の歴史書では、先に紹介した海部氏
あまべうじ系図、また、「先代旧事本紀せんだいくじほんぎ」、では詳しく記されています。秀真伝(ほつまつたえ)では大物主家による日本建国史が記述されていますが、饒速日尊についても先代旧事本紀に劣らず詳しく記されています。大物主と饒速日尊を同一とする説もあります。それから、東海から東北地方にかけての神社に祭られている「アラハバキ神」も饒速日尊と共通したものが多くあります(参照)。




先日、落語家の立川談志の若い頃の落語をCDで聞いたのですが、強靭な世界でありました。やはり立川談志はスゴイですね。
何度聞いても飽きません。落語といえば
崇徳院すとくいんという噺がありますが、崇徳院とは崇徳天皇のことです。落語では、崇徳天皇が詠んだ、百人一首にも取り上げられている 

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 
われても末に あはむとぞ思う

 
という有名な歌がキー・ワードとなっている、若い男女の互いの一目惚れのほのぼのとした話になっています。ところが、崇徳天皇といえば特に皇室では最も恐れられているとされている天皇のようです。恐れられているというのは云い過ぎかもしれませんが、時代が徳川時代から明治時代になったときの明治天皇の、あるいは皇室の取った行動は、そうとしか思えないのです。
崇徳天皇は平安時代後期の人ですが、「崇徳」は諡
(おくりな)で、死後に付けられたものです。リンクした『ウィキペディア』でも説明されているように、崇徳天皇は怨霊の神として後の時代の人々に恐れられています。室町時代に書かれた太平記にも怨霊の神として登場していますので、当時の人たちにもなじみの事柄だったことは想像できます。
崇徳天皇がなぜこれほど怨霊神として恐れられているかと云いますと、皇位を退いた後クーデターを起こした
(保元の乱)が失敗に終わり、讃岐(さぬき・四国 香川県)に流されます。その地では写経の日々を送ったようで、写した五部大乗経を都の寺に納めてほしいと朝廷に願い出ますが、天皇がこれを拒否したということです。
それで讃岐院(崇徳院)は激怒し、舌を噛み切った血で「日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん。この経を魔道に回向
(えこう)す」と書き込んだということです。自らが怨霊になることを宣言した天皇は後にも先にもこの人だけでしょう。このように崇徳天皇(讃岐院)は失意の内にこの世を去った(1164年)のですが、それから16年後には武家である平清盛(平氏)が天皇に福原遷都を強要するほどの権力を得、さらにその12年後には源頼朝(源氏)が鎌倉幕府を開くのです。つまり崇徳院の宣言どうり、「皇を取って民とし 民を皇となさん」ということが現実となったのです。
また、鎌倉幕府に対して反乱を起こした後鳥羽上皇と順徳天皇親子が、臣下である武士によって島流しの刑に処せられるという、前代未聞の事態が起こるのです(後鳥羽上皇は隠岐島、順徳天皇は佐渡島)。
さて、時代は700年ほど下って、江戸時代が終わり、明治時代に代わる時、明治天皇の即位式が行われるのですが、その前日1868年8月26日、天皇の勅使が讃岐の地
(四国香川県)にある崇徳天皇陵に赴き宣命を読み上げているのです。このとき明治天皇はまだ17歳だったので、このことは皇室の側近の助言によるものと思われますが、その内容は、崇徳天皇の霊を慰めるため都の近くに新宮を建立したので、どうか我らの志を受けて長年の怒りを鎮め京へ戻ってください、というものです。この日、8月26日は崇徳院の命日でもあるのです。そして次の日、27日に明治天皇が即位します。翌月9月6日、崇徳院の霊を京都の新宮へ移し、天皇が拝礼し、翌々日、元号が明治と改められるのです。1968年9月8日のことです。これはまぎれもない事実なのです。




諡号(しごう・おくりな)というものは、日本の場合、ほとんど天皇の死後贈られるものですが、例外的に天皇に即位しなかった皇太子である聖徳太子にも贈られています。「聖徳太子」がそうです。
飛鳥時代の聖徳太子の本名は古事記では上宮之厩戸豊聡耳命
(うえつみやのうまやとのとよとみみのみこと) 。日本書紀では厩戸皇子(うまやどのみこ)などいくつかの呼び名が記されています。また、聖徳太子が建立したとされる法隆寺の釈迦三尊像光背銘文から「上宮(かみつみや)法皇」とする説もあります(もちろんこれに反対する説もあります)。・・こういう風に綿々と説を取り上げていくと切りがなく、文の勢いがなくなりますので、今後できるだけ私の得心した流れで書いていこうと思います。どうぞご了承を。
聖徳太子の頃から、天皇家と豪族との力関係が拮抗し、先日述べたように、時によっては豪族、あるいは武家により天皇が暗殺されたり、島流しにされたりしているのですが、それに加え天皇家の内紛も増えていったようです。そうした事件により不遇の死を遂げた天皇も少なからずいたわけで、そうした無念のうちに亡くなった天皇には諡
(おくりな)に「徳」の字が付けられているという井沢元彦氏の説があります。これは説得力があります。
第4代懿徳
(いとく)天皇と16代仁徳(にんとく)天皇は時代が古く例外ですが、36代孝徳こうとく天皇、48代称徳しょうとく天皇、55代文徳もんとく天皇、75代崇徳すとく天皇、81代安徳あんとく天皇、84代順徳じゅんとく天皇、この「徳」の字が当てられた六名の天皇は皆不遇の内に亡くなっているのです。




飛鳥時代の36代孝徳天皇(在位645年〜654年)は皇太子に妻を奪われ、都(難波・大阪)に置き去りにされ孤独死をするという屈辱的な死に方をしています。女帝である奈良時代の48代称徳天皇(在位764年〜770年)は愛人である仏僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を天皇にしようとするが失敗、失意のうちに病死しています(暗殺説もあり)。平安時代の55代文徳天皇(在位850年〜858年)は藤原氏の圧力により、息子である皇太子を天皇にすることができず政治の実権を奪われてしまい、若くして急死。
平安時代末の75代崇徳
天皇(在位1123年〜1141年)は先に述べたように、皇位を退いた後クーデターを起こした(保元の乱)が失敗に終わり讃岐に流されます。その地で写経した五部大乗経を都の寺に納めてほしいと朝廷に願い出ますが、天皇にこれを拒否され激怒、舌を噛み切った血で自らが怨霊になることを宣言し失意の内にこの世を去りました。
同じく平安時代末の81代安徳
天皇(在位1180年〜1185年)はわずか2歳で即位していますが、当然実権は平清盛が握っていました。平家物語で有名な壇ノ浦の合戦で、平家一門が滅亡する際に祖母に抱かれ入水(じゅすい)します。安徳天皇8歳のときです。
この時、母の建礼門院も入水しますが、源義経の家人である伊勢義盛により熊手で髪をかけられ救い上げられたということです。
その際、三種の神器のうち神璽(勾玉)と宝剣が海底へ沈みましたが、後に神璽は引き上げられ、宝剣はそのまま失われたとされています。因みにその時の宝剣(天叢雲剣・
あまのむらくものつるぎ)は崇神天皇の世(紀元前1世紀頃)に御霊分けされた分身とされるもので、その後新たに分身の剣が作られ現在は皇居の「剣璽の間」に納められているとされています。
一方、本体の剣は現在名古屋市の熱田神宮の御神体として納められているということです。神璽(八尺瓊勾玉・
やさかにのまがたま)は現在、皇居の「剣璽の間」に納められています。神鏡(八咫鏡・やたのかがみ)はこれも紀元前1世紀頃、崇神天皇の世に分身が作られ、現在は皇居の賢所かしこどころにあり、本体は伊勢神宮内宮に納められています。




さて、徳の字を諡(おくりな)として当てられているもう一人の天皇は鎌倉時代初めの順徳天皇(在位1210年〜1221年)です。
先に述べたように、平家の血を引く安徳天皇は8歳のときに壇ノ浦の合戦で入水しました。その後、源頼朝による鎌倉幕府が開かれるのですが、これは朝廷から独立した初めての武家政権でした。崇徳天皇が失意の内にこの世を去ってからおよそ30年後のことです。まさに崇徳院の宣言どうり、「皇を取って民とし 民を皇となさん」ということが現実となったのです。その源氏は三代将軍実朝
(さねとも)が北条氏などに操られた身内により暗殺され途絶えます。後鳥羽上皇はこの時とばかりに幕府を打倒しようと兵をあげますが(承久の乱・1221年)敗れ去ります。そして以前にも述べたように、二人の息子、土御門天皇と順徳天皇とともに流罪(島流し)に処せられます。天皇が臣下である北条幕府に島流しにさせられるというのは前代未聞のことです。佐渡島へ島流しにされた順徳天皇は都へ帰ることなく、失意のうちに流罪地で亡くなるのです。そして死後「順徳」という諡(おくりな)を贈られています。順徳天皇の兄である先代・土御門天皇は土佐へ流され、その後阿波へ移されそこで亡くなっています。この人は性格が温厚で倒幕の意志もなかった人なので、怨霊としては恐れられなかったようです。ですから「徳」の字は贈られていません。
一方、順徳天皇と土御門天皇の父親、隠岐島へ流されてその地で亡くなった後鳥羽上皇は承久の乱の首謀であり、気性の激しい人であったので、死後「顕徳」を贈られています。ですがその4年後、怨霊による祟り
(たたり)が噂されたので諡号が改められ、今の「後鳥羽」が贈られたということです。ですから「徳」の字を贈られた天皇は7人いたということになります。そして、後鳥羽上皇のように一度贈られた諡が改められるというのは異例のことでした。つまり、怨霊による祟りがないように「徳」の字を贈ったにもかかわらず祟りをなした。それ以後、悲運な死に方をした天皇に「徳」の字を贈るということはなくなったとされています。




先に述べたように、安徳天皇は壇ノ浦の合戦に敗れた平家に奉じるかたちで8歳で亡くなりました。その後を継いで4歳で天皇になったのが後鳥羽天皇(後の上皇)です。寿永二年(1183年)のことです。この時には神器の受け継ぎはなかったということですので、やはり実権を握っていたのは院政を行っていた後白河上皇だったのでしょう。それから15年後、後鳥羽天皇19歳のときには、わずか3歳の息子(土御門・つちみかど)に皇位を譲り、自らは上皇となります。ですが、当時は外祖父であり、上皇の院司でもあった源通親が絶大な権力を誇っていたので、後鳥羽上皇の思いのままにはいかなかったようです。それから4年後、源通親が亡くなってからは、自分の理想とする方向へ進んでいきます。当時は天皇といっても名ばかりで、実権は北条氏に握られていました。ですから、後鳥羽上皇の理想は王政復古にあったと云えます。
先に述べたように上皇は、三代将軍実朝
(さねとも)が暗殺されたとき、幕府を打倒しようと兵をあげます(承久の乱・1221年)が、この事からも判るように武道には長けていました。また後鳥羽上皇は気性の激しい人であったとも述べましたが、これは言い方を代えると感受性が強いともいえるのではないでしょうか。そのことは、上皇が「新古今和歌集」を編纂したことでも充分に察することができます。まさに文武両道に長けていたと云えます。当時の代表的歌人、藤原定家は「今に於いては上下更に以て及び奉るべき人無し。
毎首(どの歌も)不可思議、感涙禁じ難きものなり」と後鳥羽上皇の歌に感嘆しているのです。上皇は歌だけではなく絵心もあり、隠岐島に流されたときには、その地で、鏡に写した自画像を描いています。それから彫刻もやっていたようで、十一面観音像を彫り、その体内に自分の歯を納めたものもあるということです。さらに芸能にも熱心で、琵琶や笛を達者に演奏し、また囲碁、双六に打ち興じ、離宮に白拍子や遊女を呼んで遊興したりということもあったということです。そういった多芸の一面を披露したものに「琵琶合
(びわあわせ)」があるとされていますが、現在目にすることができるのは息子である順徳院が書いたとされる「琵琶合」しかないようです。




順徳院の琵琶合びわあわせ群書類従の管弦部に収められていますが、琵琶合はこれまで何度か紹介した歌合(うたあわせ)と同様、二つの琵琶(楽器)を比べて勝ち負けを決めていくものです。源氏物語では絵合えあわせも行われていますが、これは後ほど紹介したいと思っています。
順徳院琵琶合
(承久二年・1220年成立)では、十三番の勝負が行われています。ということは、26面の琵琶が登場していることになりますが、これらの琵琶には皆名前が付けられています。
その内、一番目の合わせを見てみましょうか・・
判りにくいと思われる箇所はこちらで適当に漢字、平仮名にし、また( )で補足しています。漢文で書かれてある箇所は適当に読み下しました。間違いなどあればご教示いただくと助かります。


左・美濃(琵琶の名前)
右・井手
美濃:上下の音
(高音と低音)相叶いて殊勝なり。もと、腹の木(響板・表板)甚だ柔らかにして、その音りやらめく所なし。
しかして、去る頃、承久二年二月、新たに腹を造り改めて後、その音すでに一倍せり。遊びに使いし時その音殊勝なるのみならず、大楽
(合奏)に於いてこれを用いむかた同様なり。

井手:殊に
ことに音に勢いあり。昔より名誉事成る物なり。平等院経蔵の琵琶の内、本願ことにこれを重ず。けぢかくて(近くで)聞くには渭橋(いきょう・琵琶の銘で十一番の合わせに登場する:参照)に過ぐべからずか。しかしながら攻め力ことに有りて、たとい力尽くしてこれを弾くといえども聊かいささかもひびらく所なし(ギターで云う「ビレる」ことだと思われます)
その條に至るは、霊物の外ほかこれに過ぎたるはなし。大楽中に於いて、その音不足なし。是は貞保親王の「愛宮」と称する琵琶なり。この番、左右とも名物の中でも上物を為す。実にも勝劣なし。井手はその音甚だ烈しはげし。そうそう急雨の如し。美濃はその音尤も健やかなり。四絃一声 帛(絹)を裂く如し。此れを持と定めし(引き分け)続きはこちら

いかがでしょうか・・・
文中、「りやらめく」という言葉が出てきますが、この意味をご存知の方はぜひご教示お願いします。古語辞典にも載せられていないようです。インターネット検索でも見つかりませんでした。
順徳院琵琶合に出てくる箇所を挙げてみました。

*其音りやらめく所なし
*其中には聊
いささかりやらめく所あり
*雑木の琵琶なれば
りやらめく所はなけれども
*なつかしく
りやらめきたることはなけれども
*
りやらめき声などはなし
*
りやらめき音などはなけれども音色尋常なり
*音勢はちいさけれども
りやらめき声など殊勝なり
*こは色ことにいさぎよくもろし
りやらめく所あり
*
りやらめく音をもちて琵琶の至極とする事この二の霊物よりおこれり

以上です。

これらから推察すると楽器の音の良い条件だと思われるのですが、はっきりとした意味が判ればありがたいところです。
言語学者の菅野裕臣
かんの ひろおみ氏によると、日本語、朝鮮語などのアルタイ語に属する言語では、語頭に「r」が立つ言葉は本来なかったということです。つまり、「ら・り・る・れ・ろ」ではじまる言葉はもともと日本語にはないということで、あるとすればそれは漢字語やその他外来語が入ってきてからのものだそうです。そうすると、順徳院琵琶合に頻繁に出てくる「りやらめく」という、琵琶の音の形容語は外来語ということになります。それは、おそらく琵琶がペルシャから中国あるいはインド経由で日本に入ってきた際に、楽器の音の良し悪しを表現する形容の言葉もいっしょに伝わってきたものと思われます。あるいはまた、楽器製作者が日本に渡って来たということもあり得るのでないでしょうか。そうした時に「りゃらめく」という音の表現も伝わってきたということも考えられます。それで、ペルシャ語に詳しい人に訊いてみましたが、「りやらめく」に該当するような言葉はないということでした。



順徳院の琵琶合が収められている群書類従には、琵琶に関して他に「八音抄」というものが載せられています。これは鎌倉時代の初めに藤原孝道により書かれたとされるものです。
ちょっとここで書き加えておきたいことを思い出したのですが、文武両道に長じていた後鳥羽上皇は刀剣にも関心が深かったようで、鑑定に関しては玄人はだしだったようです。また、御所内には刀鍛冶を召抱えていたということです。そして、「御番鍛冶」という制度が設けられました。このようなことは、それまでの天皇にはなかったことで、後鳥羽上皇の刀への関心の深さを物語っています。御番鍛冶とは一ヶ月、あるいは二ヶ月ごとに各地の有名刀工を呼び寄せて御所の鍛冶場で仕事をさせる制度で、時には上皇自ら鍛えや焼入れのための焼渡しを行ったということです。当時の京都は山城という国でしたが、当地には来
らい派という優れた刀工集団がありました。その他、粟田口あわたぐち派、綾小路あやのこうじ派など名刀を鍛え上げる優秀な刀工がいましたが、御所には他の有名産地である備前(岡山県)、備中(びっちゅう・岡山県)、河内(かわち・大阪府)からも呼び寄せたということです。そのための資金は、当然数多く所有していた荘園からのものでしょうが、これらの膨大な資金は倒幕のための軍資金でもあったのだと思います。また、自ら手をかけた刀には自分の銘を入れ、近臣や武士たちに与えたということですが、これも倒幕に際しての下準備であったのかもしれません。
さて、順徳院琵琶合と八音抄のなかで興味深いのは、文中、20数年の間多くの琵琶を見、また壊れた琵琶の修理をしてきたので云々・・と記されていることです。また、琵琶の音について、実に豊かな形容で溢れているのです。現在のように音に溢れた環境にいる人間よりも、今よりもはるかに音の少なかった昔の人の方が音に関して敏感だったのではないでしょうか。そのことを裏付けるような、今から800年ほど前の鎌倉時代の人たちの、琵琶という楽器についての音の形容にはまったく感心してしまうのです。


八音抄 順徳院琵琶合

琵琶の歴史について


自作平家琵琶 銘・白鷺

銘・月影
新作 銘・相応

平家琵琶製作工程



琵琶のルーツはペルシャのバルバットという楽器だとされています。それが1世紀の頃には中国に伝わっていたようで、その後シルクロードの終着点である日本には6世紀の欽明天皇の頃伝わってきたとされています。バルバットの背面板は日本の琵琶のように一本の厚い木から削り出したもので、膨らみ具合も琵琶と同様のものだったようです。それがアラビアに伝わると、背面板が細い板を張り合わせて大きく膨らみをもたせたウードという楽器になります。
琵琶が日本に伝わって来た頃と同じ時期の、ササン朝ペルシャ時代
(3世紀〜7世紀)の銀器に描かれたバルバットの図を見ると、撥の形がバルバットのものは長方形のヘラ状であるくらいが目立った違いで、楽器の形状はほとんど日本の琵琶(楽琵琶)と同じです。




ササン朝ペルシャ時代の銀器に描かれたバルバット



中国北斉時代
(6世紀頃)の石のレリーフ(ボストン美術館所蔵)
山川出版社刊「シルクロードの響き」から部分転載




敦煌・莫高窟に描かれている琵琶






これは琵琶というよりもリュートのような感じです。



同様の楽器を持った像が京都の三十三間堂にある不思議・・



こちらはシルクロード・クチャにあるキジル千仏洞の壁画
細長い形状の五絃の琵琶です。この形状の琵琶はペルシャをはじめシルクロード各地に、丸い形状の四絃琵琶と同時に存在していたようです。これは、インドからペルシャに伝わったものとされています。正倉院にも同様の琵琶が所蔵されています(参照)。ということは、琵琶のルーツはインドということになります。それがペルシャに伝わった際に四弦になったことが考えられます。
一般的には、たとえば楽器事典などでは、先に述べたように琵琶のルーツはアラビアのウード、あるいはペルシャのバルバッドということになっていますが、私はこのことには疑問を感じていました。琵琶という発音はビワですが、バルバットやウードという発音がどうしてビワになるのか納得できなかったのです。楽器というものは、それが他の国に持ち込まれるときには名前もいっしょに伝わるはずだからです。それで、いろいろと調べていたら、インドに古来から伝わるヴィーナという楽器があるということを知りました。現在ではインドのヴィーナというとこのようなものですが、本来は弦楽器全般をヴィーナと呼んでいたということです(参照)。ヴィーナという発音ならばそれがビワに転訛することは考えられます。



これはスペインのコルドバで出土した、11世紀のものとされる彫刻です
(東洋書林刊 世界音楽文化図鑑から部分転載)。楽器は時代から推察して、アラビアからムーア人によってもたらされたものだと思われます。ヨーロッパのリュートの原型とも云える楽器でしょうが、弦の数が違うだけで外見はほとんど琵琶と同じです。この時代は日本では平安時代です。琵琶は楽器の分類上、ヨーロッパのリュート属に入れられているようですが、リュートはアラビアのウードから派生したものですから、琵琶の方が歴史は古いわけです。ですから本来ならば、リュートは琵琶属あるいは、バルバット属の楽器ということになります。



中国の琵琶は今では形状が全く違っていますが、
昔は日本のものと同じ形状だったようです。



このように観音図にも琵琶を持たせていますが、
これが日本の弁財天図の元になったのでしょうか・・(参照)



因みに、これは江戸時代の初めの画家・狩野探幽が
描いたものの写しですが、これは
楽琵琶のように見えます
Kiyondコレクション

その一  その二

その三
  その四

その五
  その六

その八
  その九

その十  勾玉について  

銅鏡の文字について  

古代の製鉄について
 

天日槍について
  

猿田彦について
    

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