日本の歴史について
                
明治時代以降の、天皇家は万世一系であるという説は極論であり、こういったことは常識で考えてもあり得ないということは明白であるのですが、それでは、どういう民族の融合であるのかということについては諸説あります。たとえば伊勢神宮の灯篭などに刻まれているヘキサグラム(幾何学模様)がユダヤ教のものと同じだったり、天皇家の紋である十六弁の菊紋についても、エルサレムの古代遺跡から同様のものが見つかったりと、たまたま、あるいは偶然の一致で片付けてしまうことのできない重要な事柄が多々存在するのです。日本の古代史に関することは私の最も関心のあることで、このことは、音楽や楽器、そして芸術というものを探求しようとしたときに、避けては通れない事柄でもあるわけです。
縄文時代の土器と弥生時代のそれを比較してみると判るように、この二つの時代の民族は明らかに違う民族です。では縄文時代の民族が日本古来の民族かといえばそうでもないわけで、縄文時代以前の石器時代の頃から、北はシベリアから南は東南アジアまで交流・交易は盛んだったということは動かしがたい事実だったようです。ということは、日本が他国からの侵略を受けたこともあるということは充分考えられるのです。
縄文時代から弥生時代への移行は、中国大陸あるいは朝鮮半島からの移住者による勢力が、それまでの日本本土の住人を凌いだ時に始まったということは、これも周知の事実となっています。ですから中国や朝鮮を支配していた民族は西アジアの部族やその系列の部族であることも十分にあり得、日本民族は東アジアどころか西アジアの血も流れているということも云えるのです。
また、南インドの影響を受けているという説もあります。
しかしながら、この日本という国の自然が人間に与えた影響は計り知れないものがあると私は思っています。ですから日本民族、それから日本の文化、芸術は日本の自然が育んだものと極論してもいいくらいです。古事記、万葉集の時代から綿々と続く和歌の歴史も日本の自然がある故に続いてきたのではないでしょうか。

さて、ここで一つ判ったことがあるので、それについて少し・・
以前の随想でちょっと触れた「三柱鳥居」のことなのですが、ありがたいことに、この三柱鳥居を調べている方がいらっしゃるのです。それによると、現在のところ日本に現存する三柱鳥居は七基で、その中の一基は京都の太秦
うずまさの木嶋神社にあるということです。この神社は太秦の一字でもある「秦氏はたうじ」によって造られたとされています。「秦氏」はこのサイトを見ていただくとお判りのように、6世紀頃に大陸から日本に渡ってきた渡来民族なのですが、この民族のルーツは中央アジアにあるということです。
秦の始皇帝の「秦」だという説は今では有力ではありません。この中央アジアを源とする秦一族は、もともとは狼をトーテムとして崇めていたが、3世紀頃にはネストリウス派と呼ばれるキリスト教の一派に改宗したと考えられているようです(参照)。このネストリウス派は三位一体
さんみいったいを強調していて三柱鳥居はこの影響であるということです。この説には説得力があります。秦氏が朝鮮半島の新羅しんら・しらぎから対馬を経由して日本に渡ってきたことは確実のようで、最初に居住したとされる地は福岡県東部の香春町にある香春神社のある所だとされています。この地は八幡神社の総本宮である宇佐八幡宮にほど近いところにあります。
他には、対馬
つしまの「和多都美わたつみ神社」の鳥居も三柱です。「わたつみ」についてはこちらを参照ください。






こんなことがあるのでしょうかね・・、これから書こうとしていたことの結論とでも言えるようなことが書かれてある本が、今年(2005年)の6月30日に出版されていたのです。それを昨日手に入れまして、今、その本に私は釘付けにされているのです。ここ数十年、こういった日本の古代史には少なからぬ興味があり、様々な人の説に目を通してきましたが、今回のこの本で収斂された感がありますね。これは特に若い人たちに是非読んでもらいたいと強く思います。
知らず知らずのうちにマインドコントロールされているということさえ気付いていない日本人・・。現代の日本の様々な問題は、日本という国の正しい歴史認識から解決していくという信念から書かれた本なので、強いパワーがあります。
本のタイトルは「失われたアイデンティティ」出版社は光文社。
税込みで1000円。著者はケン・ジョセフという東京生まれのアメリカ人、祖父母はイラク人。先に述べた「三柱鳥居」のことも書かれてあります。本の通販サイトで手に入れることができます。ぜひ読んでほしいと思います。
この本でまず主張されていることは、日本の皇室のルーツは中東のアッシリアにあるということです。ところがこのことは著者も最初は信じ難かったということなんですね。これは当然でしょうね。学校教育ではこういったことは教えてくれませんから。ここからは、この本には書かれていないことですが、著者は1991年の湾岸戦争のときに始めて故郷のイラクへ行くことになったそうです。著者34歳のときです。イラクには親戚が多くいるので、おじさんのところへ泊めてもらったそうですが、生活習慣が日本とよく似ているのに大変驚いたということ。たとえば風呂は日本と同じように浴槽があってその前でかけ湯をする、トイレは昔の日本の汲み取り式のものとそっくり同じ。それから言葉にも同じようなものがあるのだそうで、「ポロポロ」、「ブクブク」といった擬態語も共通している。あまりにも似ているので、日本に居る父親に電話をしたら、「あたりまえじゃないか、日本のルーツはそっちなんだから」と言われた、そこから、著者の日本のルーツ探しが始まったのだそうです。で、その著者の父親はキリスト教の宣教師で、22歳のときにアメリカから日本へ渡ったということ、その時、船の中で「ジャパン・タイムズ」の当時のオーナー、東ヶ崎潔という人と出会うのです。この人物といろいろと話をしていたら、「実は君の先祖は今から1400年前に日本に来て、自由と民主主義、それから医療と古代のキリスト教を日本に持ってきたんだ」と言われたのだそうです。驚くことは終戦間もない頃
(1940年代)にそういった認識をしていた日本人がいたということです。
また、現在、日本では、古代中国と西アジアとの融合の様子を当時の造形物から眺めるという企画展も開催されています。広大な中国大陸の古代遺跡の発掘も近年盛んになってきていて、中でも西域から中国に渡ったとされるソグド人系の墓から出土したものには、ケン・ジョセフ氏が述べていることを裏付けるものが多く含まれているのです。
こうしてみると、以前の随想で述べた5世紀頃のコプト裂と同じ時代に、中国大陸、それから日本にまでも、コプトに及んだものと同じ影響が行っているのです。このことを思うと、日本という地で西洋の音楽が受け入れられているということに何の違和感もないというのは当然のことなのかなと思ってしまうのです。音楽というものは形として残らないものなので、なんとももどかしいことではあるのですが、せめて造形物として残されたものから、その一端でも想像できれば、と今、感慨に耽っているのです。






先日、新聞に奈良県の飛鳥地方での発掘調査が終わった6世紀の遺跡のことが掲載されていましたが、これは朝鮮半島からの渡来者が住んでいた町並だったようです。町並といっても立派なもので、専門家の話によると朝鮮からの渡来系民族「東漢氏(やまとのあやうじ)」の本拠地ではないかということです。飛鳥地方といえば有名なキトラ古墳はじめ石舞台など古代遺跡の宝庫のような所ですが、 キトラ古墳も渡来系の人物の墓とされています。飛鳥は7世紀に蘇我氏が繁栄した所でもあるのですが、この蘇我氏も朝鮮半島の百済から渡来してきた民族とされています。先に述べたように、「秦氏はたうじ」も大陸から渡来してきているとされていて、この民族は養蚕技術を持ってきています。機織はたおりのハタですね。蘇我氏は製鉄技術が得意な一族であったとされていて、今回発表された東漢氏一族は高度な土木技術を持っていたということです。
ついでに述べると、聖徳太子は現在では木工の神様ともなっていますが、ケン・ジョセフ氏によると渡来系の民族で、ルーツは西アジアだということです。宗教はペルシャのゾロアスター教だったようです。聖徳太子という名称は後の平安時代になって付けられた諡号
しごう:おくりなで、歴史資料には上宮かみつみや法皇、厩戸皇子うまやどのみこ豊聡意耳皇子とよさとみみのおうじなど様々な名前で記されています。聖徳太子の出生に際しての伝説は、イエス・キリストのそれと酷似していて、受胎告知もそうだし、厩で生まれたというのもそうです。また、イエス・キリストの父親ヨゼフは大工ということになっていますが、聖徳太子が木工の神として崇められているということと共通しています。それから、聖徳太子は実在の人物ではないという説もありますが、それはちょっと行き過ぎではないでしょうか。
古来から朝鮮半島と日本列島には、数千年にわたり中国大陸からの多くの人口移動があったわけですが、この7世紀という時代は大きな節目だったとも云えます。ひとつ間違えば当事の強国、唐に占領され中国の一部になっていたかもしれないのであり、そういうことを退けて、日本独自の文化、言語を保ってきたことができたことは奇跡とも言えるのです。その一端を聖徳太子は担ったとも云えるのですね。






新聞の地元版で、兵庫県丹波市山南町の古墳群から出土したものについての記事が掲載されていました。それは三世紀頃の土器や装飾器台という祭祀に使われた焼き物なのですが、これが兵庫県北部の丹後半島にルーツをもつものだということなのです。山南町は丹後半島から南西に150kmほど行ったところにあり、北の但馬たじまと南の播磨はりまを結ぶ通称・播但道ばんたんどうと但馬と丹波を結ぶルートのおよそ中間に位置しています。
後に述べる(参照)江戸時代の儒学者伊藤東涯も山南町の神社に立ち寄っていますから、京都から丹波を抜けて但馬へ向かう街道は、やや遠回りになりますが山南町を通るルートもあったのでしょう。
そのルートは古墳時代にはすでにあったということも、この出土品から云えるのでしょうが、それが当時の但馬の勢力範囲だったのか、単なる流通品だったのかということは知りたいところです。
土器が発見された丹後の地は、三世紀頃
(弥生時代後期)には日本海ルートで朝鮮半島から鉄を輸入し大勢力圏を築いていたことが研究で明らかになっている、と、この記事には書いてあります。
但馬といえば古事記・日本書紀に登場する天日槍
あめのひぼこがまず思い出されますが、この人物についても様々な説があり、はっきりとした人物像を描くことができません。日本書紀では垂仁すいにん三年(西暦27年)に多くの宝物を持って渡来した新羅(しんら、又はしらぎ・当時の朝鮮半島の一国)の王子と書かれてありますが、古事記では応神朝(西暦270〜312年)に渡来したことになっています。また日本に来てからの行動についても記・紀ではかなり違っています。それから記・紀とは別の歴史資料、たとえば播磨風土記での行動もまた違っているのです。ですから天日槍は実在の人物ではなく、朝鮮から伝来した武器である鉾ほこを人格化したものだろうという説まであります。
そういった様々な説とともに、天日槍の足跡を辿ってみると、九州北部
(福岡県)に上陸し、そこから西へ向かい、山陰、山陽を経て播磨(兵庫県南部)へ、そこからから東へ行ったところにある難波、さらに東へ行くと飛鳥、奈良、そこを北上して琵琶湖のある近江(おうみ・滋賀県)、近江から琵琶湖の西岸を北上して若狭わかさ、そこから日本海沿いを西へ向かい、最終的には但馬へ落ち着いたことになっています。
天日槍が古事記に記されているように3世紀頃に新羅から渡ってきたとすると、当時の日本は卑弥呼の時代から次の時代の大和朝へと移行する端境期にあったわけですが、この卑弥呼という人物が中国や朝鮮半島の歴史資料にしか書かれていないというのも不思議なことです。ですから、もちろん古事記や日本書紀には記載されていません。
大陸から伝わってきた鉄というものは、縄文時代の後期から弥生時代の初期にかけて伝来した、ということが今では通説になっているようですが、縄文人と弥生人は明らかに違う人種なので、弥生時代に弥生人が持ってきた
(持ってくるということは鉄の製造技術を持ってくるということです)として、そうすると、その後、日本と朝鮮半島、それから中国との交流は多くなったというのは当然考えられます。ですから、新聞記事に書いてあるように「朝鮮半島から鉄を輸入し・・」ということではなく、当時日本を征服した民族が持ってきたと云う方が正しいのかもしれません。
ここで、ちょっと話が脱線しますが、弥生人はどこから来たのかということもおよそのところ判ってきているようで、従来の説では朝鮮半島を含めた大陸北部からの移住者であろうとされていましたが、どうもそうではなく、中国雲南省を中心とする東南アジア方面からの移住者ではないかと推察されているようです。
日本の神社にある鳥居というものは雲南省のアカ族の風習と酷似している、「うどん」というものもルーツは雲南省にある、田の神、及び水神についても同じ、と共通点は多くあるのです。また、先にも述べたように南インドのタミルからの影響を受けているというもあります。
それからここ最近の中国の考古学研究の成果の一つに、米の品種のことがあり、それによると、日本の米は朝鮮半島や中国北部のものとは違うということが判ったということなのです。つまりこれまでの説のように稲作は朝鮮半島からもたらされたというのは間違いだったと云えるのです。
もう一つ、有力な説は中国に伝わる徐福伝説です。徐福というのは人名で、中国の秦時代
(紀元前3世紀)の人物とされています。紀元前3世紀といえば、日本では弥生時代で、時代的には徐福伝説と符合していと云えます。
徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探すことを命じられ、日本に渡ったと云われています。その時に焼き物の技術をもたらしたとされていますが、それだけではなく、徐福の出身地が中国南部、日本と同種の稲を作っていた地域であるということが近年の研究で明らかにされているようです。中国の歴史書「史記」にはこの徐福のことが記されていて、「男女三千人を
(日本に)遣わし、これに五穀の種と百工(様々な職人)を送りて行かしむ。徐福、平原広沢を得て、止まりて王となりて来たらざりき云々」、つまり日本に渡ったままそこに住みついたということが記されているのです。

日本書紀にも当時の朝鮮半島の国々、高句麗
こうくり、新羅しんら・しらぎ、百済ひゃくさい・くだらとの交流の記述は数多く見られるので、新羅の王子である天日槍が渡ってきても何の不思議もないことなのですが、そのことの記述があいまいになっているというところに何か引っかかりを感じるのです。






日本最古の歌集「万葉集」の和歌の作者は、古くは4世紀の仁徳天皇から8世紀の大伴家持まで載せられているということですが、史実とされている天皇は7世紀の舒明天皇くらい
(このことも諸説あります)からなので、その間の130年ほどの間に生きていた人々ということになります。
この万葉集の中で万葉仮名で書かれたものには意味不明の歌が存在しているということですが、この難解な歌についてはこれまで様々な解釈がなされてきたようです。その一つに李寧熙
イ・ヨンヒという人の説があります。私はこの方の説に強い説得力を感じるのです。李寧熙という人は日本生まれの韓国女性で、その著書「もう一つの万葉集」が1989年に日本で発刊され、当時話題になったのですが、出版を前に出版社がこの原稿を何人かの言語学者に示したら、どれも否定的な意見だったということです。それまでの定説とあまりにかけ離れていたので、それは当然だったのでしょう。
しかしながら、それまでの定説とされているものは、李寧熙氏のように古代朝鮮語と古代日本語に通じている人の解釈ではなく、日本語からのみ考察したものなので、違っていてあたり前といえばあたり前なのです。こういった経緯があったものの「もう一つの万葉集」はなんとか出版に漕ぎつけることができたということで、ありがたことに今こうして目にすることができるのです。
古来から日本には列島以外の国から征服者が波のように打ち寄せてやって来ていたという説は、今でこそようやく認知されるようになってきていますが、それには李寧熙氏のように熱い情熱と勇気を持った人の発言がなかったならば適わなかったかもしれないのですね。
この方が、著書「もう一つの万葉集」で述べていられることの一つに、韓国の古書は純粋な漢文体で書かれてあるのに対し、日本の古事記・日本書紀といったものは漢字を使っているが、それは韓国の「吏読風
いどくふう」に書かれてあるということです。つまり多くは古代韓国語で書かれているのだそうです。これは万葉集にある万葉仮名にも云えて、万葉仮名で書かれた難訓歌、未詳歌とされている歌はほとんど韓国語で読めるということなのです。そうすると、そういった説から敷衍してみると、初期の万葉集に登場する額田王ぬかたのおおきみは朝鮮半島からの移住者の子として日本で生まれた女性であったということは充分あり得るのではないでしょうか。それどころか、初期万葉集の頃の歴代天皇は朝鮮半島からの移住者だったとう説もあながち間違ってはいないということも云えるのです。





先に述べた、ケン・ジョセフ氏はその著書の中で、日本は古代から様々な渡来人が、中近東、西アジア、中央アジア、中国、朝鮮からやって来ていて、とくに飛鳥時代以降になると奈良や京都は渡来人の新興住宅地になっていたと述べています。その根拠も多く挙げられていて、著書「失われたアイデンティティ」 と「十字架の国日本」はその根拠を述べるために書かれているようなものです。その中から一つ興味深いことを取り上げると、聖徳太子が7世紀(604年)に制定した「十七条憲法」の一条で「和を以て貴しとなす」と謳(うた)っているのは、当時の京都、奈良に様々な渡来人が多かったからに他ならないということです。「十七条憲法」は一般人のためではなく、官僚のために作られたということも云われていますが、どちらにしても、古代日本の系譜書(815年に編纂された 新撰姓氏録)では日本国内の諸氏族は「以前から来ていた人々」と「新しく来た人々」とに分けて記載されていることからも、当時の人々の対人意識というものを推しはかることができます。
それから、聖徳太子に関しては、建築の専門家である上野隆功氏が書かれた著書「斑鳩
(いかるが)の夢・法隆寺創建の真相」では、衝撃的とも云える説が述べられています。その根拠も実証的で説得力があります。結論から言うと、法隆寺は聖徳太子の命によって止利(とり)仏師が携わって建てられたもので、当初、金堂には釈迦三尊像(現・金堂)、救世観音菩薩像(現・夢殿)、弥勒菩薩像(現・中宮寺)が揃って 安置されていたというのです。これらの仏像はもちろん止利仏師の作とされるものです。
先に紹介したように、聖徳太子は現在では木工の神様ともなっています。ケン・ジョセフ氏によると 渡来系の民族で、ルーツは西アジア、宗教はペルシャのゾロアスター教だったということです。 聖徳太子という名称は後の平安時代になって付けられた諡号
(しごう:おくりな)で、歴史資料には上宮法皇、厩戸皇子、豊聡意耳皇子など様々な名前で記されています。聖徳太子の出生に際しての伝説は、イエス・キリストのそれと酷似していて、受胎告知もそうだし、厩で生まれたというのもそうです。聖徳太子も先に述べた天日槍と同じようにはっきりとした 人物像は 掴むことができません。聖徳太子の著書の一つに三経義疏さんぎょうぎしょがありますが、これは中国から伝わってきたばかりの三つの大乗仏教の経典、勝鬘経しょうまんぎょう、維摩経ゆいまきょう、法華経ほけきょうの注釈書です。太子はこれらをそれぞれ二年足らずで仕上げたとされていて、その天才ぶりの一端を知ることができます。
上野隆功氏によると、聖徳太子が建立した法隆寺は、維摩経の教えを具現化したものではないかということなのですが、これも説得力があります。特に金堂は、維摩経に記されているような、過去・現在・未来の仏を具現するため、建立当時は釈迦三尊像(現・金堂)、救世観音菩薩像
(現・夢殿)、弥勒菩薩像(現・中宮寺)が揃って安置されていた。また金堂の内陣は今の天井部が取り払われた状態で、吹き抜けであった痕跡が多くあるということで、 もしそうだとしたら、兵庫県小野市にある快慶作の本尊が安置されている浄土寺のように、日光を効果的に採り入れた幻想的な雰囲気、効果を醸し出していた ということも充分に考えられます。






法隆寺は1934年から1985年にかけて大修理(昭和大修理)が行われました。その折、金堂の壁画修復を行っていた際に火災により壁画が失われるという事故が起こったりしましたが、この大修理の恩恵で法隆寺に関する様々な謎が解明されました。なかには謎が謎を呼ぶというような事柄もあったようですが、その一つに、金堂の礎石の下から見つかった奇妙な焼け跡があります。それについては専門家の間で様々に推測されているようですが、いまだ結論は出されていないということです。
建築の専門家である上野隆功氏はこれについて、この焼け後は鉄を精錬した炉の跡ではないかと推察されています。また、聖徳太子が法隆寺の金堂で具現化しようとした維摩経の、太子が大きな影響を受けていたこの経に書かれている内容から推察すると、その炉から精錬された鉄で作っていたものは刀ではないかと結論を出されているのです。大和国
(奈良県)は古くからの刀の生産地でありましたし、そういったことは充分に考えられます。聖徳太子が当時の中国の隋に小野妹子を筆頭に遣隋使を使わした記録は、日本書紀では簡単に触れられているだけですが、中国の歴史資料には詳しく記されているということで、その内容から推察しても斑鳩(いかるが)の地で刀が生産されそれが中国や朝鮮に輸出されていた可能性も大きいのです。
ということは、先に述べた天日槍
あめのひぼこの足跡が斑鳩で生産された刀の移動ルートと重なるのは偶然ではないような気もするのです。現在の法隆寺金堂はその製鉄炉と思われる跡の上に建てられているわけですが、その工事の仕方、あるいは金堂の建て方が、何か大急ぎで行われていたとしか思えない痕跡もあるのだそうです。この時期が、白村江の戦いで日本と百済の連合軍が唐・新羅に敗れた時期と一致するのも上野氏は訝るのです。つまり、この戦いの後の唐・新羅連合国からの戦勝国としての要求のひとつに、当時各国から羨望の目で見られていた斑鳩製の刀の製造技術の譲渡が含まれていたのではと推察されているのです。この要求を退けるために大急ぎで刀の製造所を取り壊した・・。






滋賀県の知人から中江藤樹のことが映画化されたとの連絡をもらいました。近江聖人と云われている中江藤樹のことは私もかねてから興味を持っていた人物なので、以前、滋賀県で私のレクチャ−・コンサ−トを企画してもらった際に、そのことについて話をしたこともあります。話は遡りますが、以前、神戸で塾の経営をしている知人が、とある町の神社の社務所を借りることになり、大掃除をするから手伝ってくれないかと誘いがあったのです。こういうおもしろそうな事には私がすぐに飛び付くのを、知人も承知の上だったのでしょう。それで、ここ篠山から北西に30kmほど行った所にある神社まで足を運んだのであります。
兵庫県中部に位置する篠山
ささやまから氷上ひかみ、柏原かいばらにかけての山間部にある神社仏閣は、驚くほど立派なものが多いのですが、そこから程遠くないところにあるこの神社も立派な社殿が建てられていました。昭和の中頃までは神主も常駐していたそうで、今は使われていないその社務所を知人が借りることになったのです。塾の子供たちを連れてきていろんな体験をさせてやりたい、と知人は目を輝かせていました。
さて、大掃除の当日、われわれ夫婦も大はりきりで神社に向かいました。二階の薄暗いところは皆さん気味が悪いでしょう、そやからそこは私がやりますねと、いちばんおいしいところを確保したのは言うまでもありやせん。で、そこの奥まったところに置いてあった、弁柄塗りの引き出し箪笥の中から古文書が出てきたんですね。細長い和紙に達筆でつらつらと何か書かれてあり、それが折りたたまれて封筒くらいの大きさになっていました。そのときは他に興味深いものがたくさんあったので、それほど気には留めなかったのですが、掃除が終わって、地元の世話役の人たちが来られたときに、こういうものもありましたよ、とその古文書を差し出したら、一人の郷土史に詳しい人が大変驚いて、こ、こ、これは伊藤東涯のものでっせ・・と言いながら、持つ手が震えているんですね。
そういうことがあり、伊藤東涯という人物はどういう人だったのかなと、大いに興味が湧いてしまったのです。





伊藤東涯とうがいは伊藤仁斎じんさいの息子で、仁斎は江戸時代初め頃の儒学者です。儒学者といっても、幕府に仕えていたのではなく、私塾を開いて終生を過ごした人です。どちらかといえば幕府の学問に対して批判的だった。幕府も同様に儒学を推奨していたわけですが、訓詁学のようになってしまっている幕府の儒学は何の役にも立たない、学問というものは生活の役に立たなければ何の意味もない、ということで、京都の堀川に自分で塾を立ち上げるわけです。そこには、評判を聞きつけて全国から弟子が集まってきたということで、その数は最盛期には三千人を超えていたということです。門弟は裕福な商人から職人、地方の貧しい農民まで身分は様々だったようです。そして、仁斎の講義を聞くと、人間いかに生きるべきかがよく判る、また、それを実践すると人間関係がうまくいく、仕事の役にも立つ、ということで大変な評判だったようです。
東涯はこの仁斎の塾を継ぎ学問を大成させました。
神社の社務所で見つかった書付は、この伊藤東涯が神社に立ち寄った際にその旨を記したものだったのです。詳しいことは憶えていませんが、京都から丹波をぬけて但馬に赴く途中に立ち寄ったものだったような気がします。おそらく、各地にある塾から請われて遊行の旅に出たものだと思われますが、当時、東涯は丹波の風景をどのように感じながら歩いたのでしょうか・・
これとほぼ同じ時期に、近江の国
(滋賀県)では中江藤樹が同じように活躍していたのです。藤樹も仁斎・東涯親子と同様私塾を開いていました。陽明学の祖といわれている人です。王陽明の教えは知行合一が大本となっていますが、これは仁斎が実践していたことと同じことだとも云えます。知行合一、つまり、ほんとうに知っているということは行動が伴っているものだ、行動が伴っていない知識は机上の空論にすぎない、ということです。これは仁斎が提唱していた、学問は生活の役に立たなければ何の意味もない、ということと同じことです。
藤樹の代表的な書き物は「翁問答」というものですが、藤樹の弟子の一人に、どんな些細なことでも質問をぶつけてくる少年がいて、ほとほとあきれるほどだが、それでも核心を突いたことばかりなので、そのつど書き留めていた。それがまとまったので「翁問答」と題して出版するという序文が印象的です。





「翁問答」は師匠と弟子との対話ですが、考えてみると儒学の基となっている論語は孔子とその弟子との対話になっています。仏教もそうです。釈迦と弟子たちの対話がお経になっています。それから、プラトンが書き残したソクラテスの行状もほとんどが対話で成り立っています。ソクラテスは対話のもっとも純粋なものは自問自答である、と云っていますが、この人の中にはダイモンというものがいて、ソクラテスはそれといつも対話をしていたわけです。この存在は言い方を代えるとソクラテスの魂の兄弟、あるいは守護霊、指導霊といわれるものであったと思われるのですが、常人にははっきりとしたかたちでは現れないのが普通ですから、ソクラテスの場合は特殊だった。インスピレーションのもっとはっきりしたものとも云えるのでしょうか。
おもしろいことに、このソクラテスのダイモンは、これはしてはいけないとしか言わなかったようなのです。もっとも、最初の啓示は「おまえはギリシャで最も優れた知者である」というものだったのですが、そんなはずはない、と自分がそうではないことを証明するために知者を訪ねる旅に出るわけです。ところが、どうも世に知者と云われている人物は評判のほどではない。いちばん大きな違いは、自分は自分が無知だということを知っている、ところが世の中で知者といわれている人物は、自分は何もかも知っていて知らないことはないと思っている。で、いろいろとその知者に訊ねると自分よりも知らないことが多い。おかしいな・・ということになるわけです。
最終的には、こうしたソクラテスに論破された人々による嫉妬で裁判沙汰になり、毒殺の刑に処せられる結果になるのですが、そのときに着せられた罪は、国の宗教に従わず自分の内のダイモンを信仰しているというもの、そしてもう一つは、若者を惑わしているというものでした。死刑が決まってからは、当然ソクラテスの信奉者による反対運動が起こったようですが、そして牢から脱出する機会もあったようですが、この時はダイモンは何も言わなかったようなのです。
いつもなら、これから何かをしようとしたときに、するべきでないときにはダイモンから待ったがかかった。ところが、いざ牢を脱出しようとしたときには待ったがかからなかったので、毒殺の刑を受け入れたということらしいのです。なんともはや・・






ソクラテスという人は、先に述べたように不思議な能力を持っていたわけすが、こういったことは信じるか信じないかということでしか判断をする術(すべ)がないので、なんとももどかしいことなのです。ところがよくよく考えてみると、こういった所謂超能力、あるいは霊能力というものがふつうに身に付いている人にとっては、それがあたりまえなことなのです。このことを、そうでない人たちはあまりにも軽く考えすぎているような気がします。科学で証明できないから信じない。そう言うのは簡単ですね。ところが、このこともちょっと深く考える必要があるのです。科学的ということは、言い換えると測定、計量できるということです。そういう物事というものは、この現象界のほんの一部分でしかないのですね。
人間が音楽に感動するということを測定することができますか?
怒っている人の怒りの度合いを測ることができますか?
人間の自由を測定できますか?
カントという哲学者は同時代に生きていたスウェーデンボルグという霊能力者について論文を書いています。このスウェーデンボルグという人物は、科学者であり、事業家でもあり、社会的にも信用があった人なのですが、50歳を過ぎた頃、突然霊能力が身に付いたのです。正確に言えば霊能力に目覚めたというべきなのですが。
そういう評判を耳にしてカントもこの人物に会い、様々に考察するわけですが、最終的にはこういう特殊な能力は、人間の理性では理解できないと結論付けるのです。だが否定はしなかった。
これは頑として存在する。ということで、カントの哲学というものは人間の理性の限界を示すことから入っているんですね。ここのところがカント哲学の特性でもあるわけです。
カントについては「芸術について」という拙論で少し取り上げていますが、カントは形而上
(あの世)と形而下(この世)の中間的存在が芸術であると述べています。ということは、霊能力のように科学的に判断できないものは、芸術的に判断できるということです。世の中には超能力や霊能力に関する書籍が数多ありますが、またそういった能力があるということで、それを商売にしたり、宗教の教祖になったりと様々ですが、そういったものも、芸術といっしょで様々なレベルがあるということなのです。玉石混交状態です。
霊能力というものは測定しようがないので人を騙すことも容易にできます。ところがそういった人物を芸術的に判断することはできるのです。その人物の目つき、立ち居振る舞い、服装、言葉、あるいはその人物が本を出している場合はその装丁、文体などでおおよそは判断できます。もちろん、こういったことを判断するのも、音楽や絵画、あるいは文学を判断するのと同様に熟練は必要になってきますが・・。






ソニ−・インテリジェンス・ダイナミックス研究所の社長兼所長であられる土井利忠氏が天外伺朗というペンネ−ムで本を出されています。飛鳥新社から出版されている「運命の法則」というものですが、昨日私が述べたようなことを科学者の立場で述べていらっしゃる。こういったことを書こうと思われたのは、ご自身の体験から端を発しているそうですが、科学者といえども第一線で活躍されている方は、やはり何がしかの目に見えない力、秩序の存在に気付かれているようです。
まずこの方が主張されていることは、20世紀というのは「理性と論理と合理主義」の時代だったが、21世紀は合理主義の底にあるもっと深いものに関して目を向けなければならないのではないか、として深層心理学者のカ−ル・ユングの「共時性」ということに話を展開していかれます。これはご自身の不思議な体験が元となっているのですが、ソニ-の創業者である井深大氏が亡くなられたときに天外氏はサンフランシスコ国際空港にいたのだそうですが、そこで、井深氏のビジョンがパッと見えたのだそうです。後で時差を換算してみると、ビジョンを見た8分後に井深氏が亡くなっていた。これはいったい何なのだろう、ということから、こういった超常現象を調べるようになったということです。そうすると、カ−ル・ユングという半世紀以上も前の心理学者が、そういった現象を「共時性」と定義して、様々な例を挙げ、また、それを考察していることがわかった。
ユングの云う「共時性」とは、一つのある出来事が同じ時間に違った空間で同時に起きることをいうのですが、この二つのことに直接的な因果関係はないものの一つの意味を表している。日本でも昔から、「夢枕に立つ」とか、「夢のお告げ」とかいっている、こうした一見奇妙な偶然の一致に見えることは偶然ではなく、目に見える物質的な宇宙の秩序の背後にもう一つ目に見えない秩序が存在していることの証であると天外氏は言われるのです。
それに関して、宇宙にはアカシック・レコ−ドというものが存在するとも云われていまして、天外氏によると、哲学者のベルクソンも20世紀の初めにそういったことについて述べているということです。
アカシック・レコ−ドというのは、人間一人一人の運命、それかから宇宙の過去と未来を含めた運命が記録されているものとされています。これは、人間個人のものは、その人が死んだときに、生きてきた過去を振り返るために見せられるものですが、このことはベルクソンは「物質と記憶」という論文で言及しています。
宇宙レベルのものは、誰でもが見ることはできず、それだけの使命のある人にしか見ることはできないということです。こういったことは、誰もが知ることができないため、信じるか信じないかの世界なのですが、こういったことは実際に体験したことがない人には分かりにくいため、どうしても「それは怪しい話だ」ということになってしまう、というのが天外氏もなんとももどかしいようです。
人間の運命に関することも、たとえば自分の運命というものを知り、コントロ−ルすることは、誰にでもできることなのだが、これは一朝一夕にはいかず、やはり熟練が必要なのであると天外氏は締めくくっていられるのです。このことは、ヘ−ゲルも同様のことを言っていて、精神現象論の序文で、こういった人間の精神に関することも、発現するためには熟練が必要なのだが、世の人々はこういったことには思いもよらないのである・・ということを述べています。






オカルトと言うと、現代では何か恐ろしいもの、気味の悪いものというイメージを持たれているようですが、本来は神秘的なもの、超自然的なものという意味です。あるいは隠されたものという意味でもあります。ですから神の世界もあれば、悪魔的なものもあるわけで、恐ろしいもの、気味の悪いものだけではないのです。ここのところは重要なところなのです。
以前、地下鉄サリン事件を起こした宗教団体がありましたが、その信者、それから実行犯の中に、世間では一流とされている大学の学生がいたことは記憶されている方も多いのではないでしょうか。このような優秀な学生がなぜあのような道に進んでしまったのか、当時多くの識者が様々に論じていました。これは、やはりオカルトに対する免疫ができていなかったのですね、私はそう思います。現在の日本では公の教育現場に宗教を持ち込むことは禁じられています。ですが宗教がどういうものか、ということくらいはちゃんと教えておくべきではないでしょうか。
宗教というものにはオカルトは切り離すことはできないことなのですが、これは日本の戦後の唯物史観、あるいは実証科学一辺倒の教育方針に反することなので、オカルトに関することはなおざりにされてきた。だから、ちょっとした霊能力
(あるいは超能力)を見せられただけでコロっとまいってしまうのですね。妄信してしまう。超能力、あるいは霊能力というものにも神の力によるものと悪魔の力によるものがあるのに、その違いを見分けることができないのです。オカルトには隠されたものという意味もありますが、何が隠されているのか、といえばそれは神の意思とでもいうものなのでしょうか。
このことは以前の随想でも述べましたが、マルクスによる史的唯物論というものが台頭してきた時代には、それと対抗するようにスピリチュアリズムがあちこちで興りました。日本でも天理教や大本教などの教祖が神がかりになり、日本神道系の大きなうねりが起きたわけですが、こういった神の啓示というものは、世の中の合理主義、あるいは科学一辺倒の流れに対する警鐘でもあるわけです。そしてこれは、何か大きな意志による働きとしか思えないようなことでもあるのです。どちらに偏ってもいけないのです。ですから科学も超能力も一つの道具として捉えていいのではないでしょうか。それをどう使うかが大切であって、それらに振り回されてはいけないのです。
オカルトの世界が実在していると認識していれば、それに対する心構えもできてきます。自分の心の中の世界がそのままオカルトの世界に通じているとすれば、人間がオカルトの影響を受ける場合もあるわけです。殺人を犯した者が、自分の意思ではない何か違った意志でやらされたと供述することはよく耳にしますが、そういったようなこともあるわけです。ですから釈尊が説いたように、悪い思いは持ってはいけないし、マイナスの思い、怒りや妬み、憎しみはそれと同じオカルトの世界と通じてしまう。そしてそれが増幅された場合、肉体が反作用を受け病気になったり、ひどいときには殺人や自殺までしてしまう。そういったことにならないように釈尊は教えを説いた。こういったことに古いも新しいもないのですね。人間の本質というものはそうそう変わるものではないのです。
そうすると、こうしたインターネットの世界というものも、やはり神の世界にも悪魔の世界にも通じているということになります。
ここでも人間の判断力が問われているのです。






古武術家 甲野善紀氏の著書の内の1冊「いつきの舞へ」を手に入れたのですが、その内容に少なからぬ驚きを感じているのです。それは清水宣明氏と甲野善紀氏の共著ということになっていますが、4分の3以上は清水氏の思いが綴られています。清水宣明氏は科学者(医学博士)で、専門は分子生物学という分野のなかのエイズウイルスの感染機構だそうです。この方が甲野氏の武術をNHKでの講座の観客として間近に接し、大きな衝撃を受けた。そして、それまで科学者の立場として、また教育者の立場として様々に考えさせられてきた事の解決への糸口が見つかったのだということです。そして三重県で行われている斎王まつりでの「斎の舞」をたまたま目にして大きな感動を受け、それまでの科学者としての現状というもの、それから世間の科学に対する誤解を打破するための指針を得たということなのですが、そういったことが綿々と綴られているのです。これは論文でもなく、評論でもなく、随想でもありません。何というのでしょうか、著者自身の告白でもあり、決意でもあり希望でもある。だからご自身も含め現在の科学者に対し、またそれを過大評価している社会に対しての厳しい批判が忌憚なく述べられている。そういった文なのですが、その行間には著者の切々とした思いが滲み出ていて、大きく心を打たれてしまうのです。

奇しくも、これまで私が書いてきたことと同じ観点なので驚いてしまったのですが、私は楽器を作るということを追求することで体得し、あるいは感じたことを、清水氏は科学者としての立場でそれと同じところを見据えていられるのです。氏が「斎の舞」を見て自分の意思とは関わりなく涙が止まらず、体が震えるほどの感動をしたのは、これまで私が述べてきたことからすれば、これは間違いなくオカルトの世界と同通されたのです。本来、芸術というものもオカルトといえるわけで、芸術は神事でもあるわけです。
で、清水氏が現在携わっておられる科学の世界では、こういったオカルトの世界はタブーとされている、というよりも科学では取り扱わない世界なのですが、現代科学の違和感と閉塞感を打破するにはパラダイム・シフトをするしかないと強く確信していられるのです。
そうするとそれは科学ではなくなる。ですが清水氏自身、科学者の一番の野望は、現在の科学という方法論を根底から覆す新しい方法論を発見することである、と口にされているのです。
以前の随想で教育に関することを少し述べたことがありますが、「斎の舞へ」では、清水氏が現在携わっている大学も含め、教育現場の現状も取り上げられています。その件では、学校法人化のために教育方法が安易な方向へ流れていき、本来の目的からは遠ざかるばかりだと嘆かれています。



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