日本の歴史について その三

頼山陽は「三国志演義」という読み本の序文を書いていますが、これは中国の明時代の歴史小説で、日本には室町時代に入ってきているとされています。最初は漢文体で出版されましたが、その後翻訳され挿絵も入れられて、江戸時代を通じて繰り返し出版されたものです。もともと読本というものは、中国の伝奇小説を儒学の教えである仁・義・忠・孝を盛り込んだストーリーに翻案したものですが、中でもこの「三国志演義」はたいへん人気があったようです。その江戸時代最後の 出版となったのが、天保7年
(1836年)から12年(1841年)にかけて出された『絵本通俗三国志』です。この挿絵は戴斗 (北斎の画号)が描いたものとされていましたが、その後北斎に関する研究が進んで、現在では、この挿絵は北斎の弟子の一人「二代目北斎戴斗(たいと)により描かれたものと判明しています。因みに、北斎の弟子筋には200人を超える門弟がいたということです。
所謂北斎一派です。
       
北斎の画号の変遷。

「春朗」  安永八年(1779)〜寛政六年(1794)
「宗理」  寛政七年(1795)〜文化一年(1804)頃
「葛飾北斎」 文化二年(1805)〜文化七年(1810)頃
「戴斗」  文化七年(1810)〜文政三年(1820)
「為一」  文政三年(1820)〜天保四年(1833)
「卍」    天保五年(1834)〜嘉永二年(1849)  

これを見ると、天保年間に出版された頼山陽が序文を書いた「絵本三国志演義」の画を担当したとされる戴斗は、やはり北斎ではなく二代目ということになりますが、画号に振り回されると見失うことが出てきたりして、注意が必要ですが、絵の特徴などから判断してもこの場合は間違いなさそうです。



「絵本三国志演義」の頼山陽の序文を紹介しようと思うのですが、これは、昭和35年
(1960年)
に「絵本三国志演義」の挿絵だけを抜粋して発刊された転写版です。ありがたいことに頼山陽の序文には解説が付けられています。意訳もされているのですが、ちょっと直訳しすぎの感があって、山陽の人となりが現れていないようなので、最後の方だけ私好みに訳してみました。
世間にこの「三国志演義」を訳して絵を入れ、子供たちに読み易くしたものがあるが、後半を欠いているため諸葛孔明の事跡の記述が不完全である。これは太平記に楠正成の記述が不足しているようなもので大きな欠陥である。
近頃続刊の計画が持ち上がって、余のところへ序文を書いてくれと言ってきた。門人たちは、その本は通俗的で卑近なものなので、もし清節を持する者や官位ある者がこの中の一事を正しいと信じたら世間から非難を受けるでしょう。 ましてこれに序文を書くようなことをしては、なおさら人のそしりを受けますのでお止めくださいという。
余は哂って答えた。構わないじゃないか、今の者は経義に疎く、詩文は古臭く、世間では痛くも痒くもないものを出版しているではないか。こんな物、ほんの一枚を見るか見ないうちに眠気がさしてしまう。この「絵本三国志演義」を見れば、どちらが雅か卑しいか、 どちらが優れているか古臭いかはっきり判るではないか。余は眠気を催す本は避けてこの本を取る。

どうでしょうか、自信に溢れていますね。江戸時代の文人たちは漢文で書くのはお手のもので、とりわけ頼山陽は得意だったようです。18歳の時、故郷の安芸(あき・広島県)から江戸へ赴いた際に書いた道中日記には、いくつもの漢文詩を書き込んでいます。特に合戦のあった古戦場の跡などでは、感情が昂ったためか数多く書き残しています。源平の合戦のあった一の谷、楠正成ゆかりの湊川などでは感涙に咽んだであろうことは想像に難くなく、「一の谷」という題の漢詩も書かれているのであります。



「絵本三国志演義」の序文を頼山陽
(1780−1832)が書いたのは当然のことですが、本が出版される前ということになるので、数年前としたら山陽晩年の50歳くらいになるのでしょうか。当時の山陽は大ベスト・セラー作家であり、特に「日本外史」(平氏、源氏から徳川家康に至る政権の覇者の歴史物語)は稿本の段階で多くの支持、共鳴者があり、出版されてからは各階層の多くの人々に読まれ、再版が重ねられ、京都の紙の価格が高騰したほどだったということです。そういう著名人に序文を頼んだということは、これは当然出版元の誰かが山陽と接触したのでしょうが、ここのところをどなたかご存知ではないでしょうか。

一つ書くのを忘れていましたが、先に挙げた山陽18歳のときの「東遊漫録」に「水戸黄門公所建 湊川の東田間にあり」 と書き込まれていますが、これなども考えようによっては、深い示唆を感じ取ることができるのです。 水戸光圀といえば畢生の大著書「大日本史」(歴代天皇の歴史)があるわけですが、この著書の内容、精神は山陽の「日本外史」と同じといえば同じものなのです。
もっとも、「大日本史」は明暦三年に書き始められてから 250年後の明治39年に完成しているので水戸光圀の著作とは云えないのかもしれませんが、ですから山陽が18歳の時は まだ出版の途中であったわけです。山陽といえば、12歳のときに論文を書いたほどの俊才だったので、18歳のこの頃には、すでに「日本外史」の構想はあったのかもしれません。

山陽の逸話の中に、古の勇者を詩情豊かに謳いあげ、その文により豪傑を涙させた、というようなこともあるくらいですから、それほど山陽の文は名文だった。詩情が豊かだった。このことは古今東西を問わずそうであるように思われるのです。賢人、聖人といわれる人は皆すぐれた詩人だった。同じ事を言っても、詩情がある文と、そうでない文とでは人に伝わる深さ、感動の度合いが違います。それに加え、山陽の文は判りやすかった。水戸光圀の「大日本史」は高尚すぎたため、当時の人にとっても難解なところが多かったためか一般には大きな影響を与えることができなかったのですが、山陽の「日本外史」は幅広い読者層を得ることができたのです。この違いは大きかった。山陽自身、陽明学にも深く傾倒していたようなので、このことは、以前随想でとりあげた江戸時代中期の学者
(京都堀川で塾を開いていた)伊藤仁斎・東涯親子のところでも述べましたが、陽明学の教えの中心は「知行合一」、本当に知るということは行いが伴っているものだ、ということです。これは言い方をかえれば、判りやすいということでもあります。このことを山陽は実践したとも云える。ですから山陽は、判りやすい文、子供にも読める文で書くということに腐心し、推敲は多く重ねたようです。



平家詞曲相伝者の鈴木まどかさんによると、江戸時代中期の国学者の本居宣長も平家詞曲に親しんでいたそうですが、この人も頼山陽と同じように、幕府からみればアウト・ローな人物でありました。本居宣長は私は若い頃から傾倒していた人物なのですが、この人が平家詞曲に親しんでいたというのは知らなかった。
宣長は大のインテリ嫌いでありました。それから漢心
(からごころ)を徹底的に嫌った。江戸幕府は儒学を取り入れていて、官学の塾ではこれを教えていた、ということはその学者もいた ということで、この学者たちとのやりとりがなかったならば、漢学者たちからの非難がなかったならば、宣長の多くの著書は世に出なかったかもしれないのです。
本居宣長の代表的な著書は「古事記伝」でありますが、これを書き上げるのに三十数年かかっています。宣長の本業は小児科の医師で、その傍ら講義をしていた。講義の途中で急患があると、きょうはこれまで、と講義を切り上げて患者のもとに駆けつけた、というようなことだったのです。それから、出版するのも自費出版です。傍らに貯金箱を置いて、少し余裕が出るとそれに入れる、そしてそれがまとまったら出版した。「古事記伝」を書き上げたその年だったか、次の年だったか忘れましたが、弟子たちに請われて「宇比山踏
ういやまぶみ」という本を出します。宇比は初という字にあてたものなのでしょう、初めてという意味です。山踏は山登りのことで、学問の道を山登りに喩えたものです。つまり学びの道の入門書とでもいうべきものですが、これは学ぶ者はもちろん、教える立場の者にも大いに役立つほどのものなのです。学問を始めて、それが成就するためにはどういったことが大切なのか、ということが事細かに説明されているのですが、最初にこういうことがさらりと書いてあります。
詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし・・
私は楽器作りは独学ですが、この宣長さんのことばにどれだけ励まされたかわかりません。そういった点では私の師でもあるわけです。
この最後に宣長自身の歌が添えられています。

いかならむ、うひ山ぶみのあさごろも、
浅きすそ野のしるべばかりも

こんな本を出したが、ほんの入り口の道しるべにもなっただろうか、と宣長さんは自信がないのです。




江戸時代中期の本居宣長にしろ後期の頼山陽にしろ、アウトサイダー的人物が平家物語に親しんでいたというのは大変興味深いことです。 頼山陽の次の世代の代表的アウトサイダーは吉田松陰ということになるのでしょうか。吉田松陰は国学にはあまり親しんでいなかったようです。 彼も頼山陽と同様若いときに脱藩をするわけですが、その時に東北を遊行し、水戸に滞在していたときには当地の名士と付き合ったりしています。 このときに名士たちから、もう少し国史国学を学ぶべきであると戒められたりしているのです。そうは云っても吉田松陰の天才ぶりは世に知られるとおりで、松蔭の養家吉田家は代々「山鹿流兵法」の師範を務めていたのですが、松蔭11歳のとき、藩主に山鹿素行の「武教全書」を講じているのです。16歳のときには管茶山、頼山陽師弟を評し、軽く切り捨てている。まあ、これはまったく若気の至りというものでしょうが、裏を返せばそれほど管茶山と頼山陽の詩と文は優れていたと云えるのではないでしょうか。若き松蔭はそれにのめり込むのを慎重すぎるほど恐れていた。これは彼の自戒でもあったのだと思います。カミソリのような彼の資質は自分にも厳しかった。 これが10年後の26歳頃になると、余裕をもって詩文に親しむことができるようになっているようです。

頼山陽も吉田松陰も若い頃に脱藩をしたことがあるということは先に述べましたが、その折に各地を遊行した際、世の中の現状の雰囲気、時代の流れの行く末というものを敏感に感じ取ったのではないかということは容易に想像できるのです。 特に形骸化された幕府の衰退ぶり、それを打破するためにはどうすればいいのか、ということを両人とも真剣に考えたのではないでしょうか。 特に松蔭の時代には黒船の来航があり、その思いは募るばかりであったであろうことは想像に難くありません。現に松蔭は黒船に潜り込み、ペリーにアメリカに連れて行ってくれるよう直談判までするのです。
その申し入れをペリーは断るのですが、そのことで 松蔭らがどのような措置を幕府から受けるかはペリーも察していたようで、幕府に対して松蔭らの罪を 軽くしてくれるよう頼んだりしているのです。松蔭はその事を自首し、投獄されることになるのですが、5年後の安政六年、今度は幕府の政策に反対し老中の暗殺を企てるのです。結果は幕府側に弾圧されるわけですが、 この事件により松蔭は死刑となるのです。
松蔭29歳のときの出来事です。




近代日本における西洋哲学の代表的人物である西田幾多郎は、その哲学的思考の確立には禅の影響が大きかったということですが、それがどのようなものだったのかは私には推測できません。
若い頃手に入れた西田幾多郎全集の書簡と日記の巻は手放してしまっているので、調べる手立てもない。西田幾多郎の日記や書簡の内容は特に知りたいとも思わなかったので手放したのですが、2004年の8月に、禅の研究者である鈴木大拙と西田幾多郎の往復書簡が刊行されたときには、これは研究者によって主要なところだけ抜粋されているから 何か掴めるかもしれないと思ったので手に入れたものです。
これは往復書簡といっても、どちらかと言えば鈴木大拙からの手紙の方が主になっているものです。鈴木大拙と西田幾多郎は共に1870年、明治3年の生まれで、出身地も同じ石川県です。
西田幾多郎については、私は若い頃大きく影響を受けた人物で、ベルクソンのこともこの人の論文から知ったのです。西田幾多郎は京都大学の哲学科教授をしていたこともあるということですが、後任の哲学者・田中美知太郎は、西田哲学を手厳しく批判していて、そこのところに興味を覚えたので田中美知太郎も深く読み込んだことがあるのですが、私としては西田幾多郎の方が本質を深く突いているのではないかと思われたのです。
そのことを一口で云えば、ギリシャ哲学が専門の田中美知太郎はその解釈に終わっているのに対して、西田幾多郎はギリシャ、西洋哲学を基に自らの哲学を築き上げているのです。この違いは大きいと思うのですが・・。
西田幾多郎が生きていた時代というものは、マルクス主義
(唯物論)が台頭してきていた頃で、その後それは日本を飲み込んでしまうほどの勢いであったわけです。現在でもその唯物思想の影響を大きく受けた人たちが日本の思想界を牛耳っているためか、今では西田幾多郎の評価はあまり高くはないようですが、私はこの西田哲学(観念論哲学)というものは、いつかきっと見直されるときがやってくると信じています。



2004年8月に発刊された鈴木大拙と西田幾多郎の書簡
(岩波書店:西村惠信偏「西田幾多郎宛 鈴木大拙書簡」)は、編者により大拙から西田宛52通、西田から大拙宛18通が取り上げられていて、それは明治30年(1897年)27歳 から昭和20年(1945年)74歳までのものが含まれています。最後に掲載されている手紙は、昭和20年3月6日に西田から大拙に宛てられた 葉書ですが、この手紙の3ヶ月後、西田はこの世を去っています。
鈴木大拙と西田幾多郎の宗教経験に関しては、これらの手紙ではそれほど知ることはできませんがが、ありがたいことに編者の補足で少し垣間見ることができます。それによると、明治28年大拙は25歳 のときに見性体験をしているのですが、その時のことを回想して大拙はアメリカ在住のときに西田に宛てた手紙でこう書いています。
予の嘗て鎌倉に在りし時、一夜期定の坐禅を了へ、禅堂を下り、月明に乗じて 樹立の中を過ぎ帰源院の庵居に帰らんとして山門近く下り来るとき、忽然として自らをわする(忘れる)、 否、全く忘れたるにはあらざりしが如し、されど月のあかきに樹影参差して地に印せるの状、宛然画の如く、 自ら其画中の人となりて、樹と吾と間に何の区別もなく、樹是吾れ、吾れ是樹、本来の面目、歴然たる思ありき、やがて庵に 帰りて後も胸中釈然として少しも凝滞なく、何となく歓喜の情に充つ、当時の心状今一々言詮し難し。このときの見性体験を大拙は晩年にも次のように西田に語っています。アメリカに行く前の年の臘八の摂心に、”これだ!” ということがあったわけだ。その時総参になって、もう少し続けて坐りたかったが、仕方がないから立って入室した。老師も”よし”というので 二つ三つ続けざまに拶処を出された。それはなんでもなく行けたが、三、四へんめに引っかかった。ちょっとぐずぐずしたら、 たちまちチリンチリンときた。その拶処は次の朝早く片づけた。”これで何年来の胸のつかえがおりた”という感も無かったわけではないが、一方また”これでまったくいい” ということもなかった。この時はまあ無我夢中のようなものだ。
というふうに、大拙自身このわずかばかりの見性体験はまだまだこれからと思っていたようですが、その後12年間のアメリカ生活を余儀なくされ、参禅は叶わなかったということです。



米国での東洋の古典の翻訳を手伝うため渡米した鈴木大拙は、12年間そこで過ごすことになるのですが、このことで禅が海外へ紹介されることになるのです。一方、 帰国してからは海外の思想、哲学を日本に紹介することにも力をそそぎ、アメリカからの帰国の前年にはロンドンで行われた 国際スウェデンボルグ協会の創立百年記念大会に出席し、協会からスウェデンボルグの論文の翻訳を依頼されるのです。 ここのところが私としては興味の湧くところで、なぜ鈴木大拙がスウェデンボルグに関心があったのか・・
このことはこれから少しずづ探っていこうと思っているのですが、どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示をお願いします。スウェデンボルグ(1688年〜1772年)は科学者として、医学者として、また生物学者として多くの業績を残していますが、50歳を過ぎた頃から神秘的な体験をするようになり、55歳のときに神の啓示を受けるのです。仏教的に言えば大悟するわけですが、そのために特に何か修道僧のようなことをしたかといえば、特別なことは何もしていないのです。もちろん参禅というようなこともしていない。
日本でも近年、文学者の芹沢光治良(1986年〜1993年)が70歳を過ぎて同じような体験をしており、その体験を記述した「神の微笑」を始めとした「神」シリーズ8冊の著書が世に出されていますが、これを読んでもらえば、スウェデンボルグの啓示がどのようなものだったのか理解してもらえるのではないかと思います。芹沢光治良も禅の修業はしていない。このように、禅と結び付きがない神の啓示といったものに、なぜ鈴木大拙は興味を示したのか・・

さて、このスウェデンボルグの神秘的な能力には当時の大哲学者であるカントも大いに興味を惹かれたようで、スウェデンボルグと何度か会っているようですが、結局カントはこのような不思議な能力は人間の理性では理解できないと結論付けるのです。その「視霊者の夢」という論文の書き様をみると、カントの戸惑いがよく伝わってきて微笑ましくもあるのですが、スウェデンボルグの霊的能力は疑いようがないと認めているのです。
スウェデンボルグが没してから7年後にこの世に生を受けた、19世紀フランスの小説家バルザック
(1799年〜1850年)も「セラフィタ」という小説でスウェデンボルグのことを取り上げていますが、これに目を通してみると、バルザックも何かこういう神秘的な体験をしているような気がしますね。日本語に訳されているとはいえ、登場人物が体験することの記述や、科白(せりふ)はそうでなくては 書けないと思われるのです。
それと比較することになりますが、ドイツの小説家ヘッセが「シッダールタ」 という作品を書いています。これは仏教の祖である釈尊の修行の様子と悟りの瞬間を記述したものですが、この記述とバルザックのそれを比べてみると、バルザックは何か深いところまで見通しているとしか思えないのです。ヘッセ自身、インド思想は20年もの間研究をしていたということですから、釈尊の思想は述べられていますが、大悟した瞬間の様子は詳しくは語られていないのです。だからといって、この作品の出来には影響はないのですが、私としては何か物足りない気がするのです。




鈴木大拙は日本の禅をはじめ東洋の文化を西洋に紹介することに尽力したわけですが、同じ頃、岡倉天心とフェノロサは 日本の美術を欧米に紹介することに力をそそいでいた。この二人は日本美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立にも参画していますが、フェノロサは仏教を信仰し、1885年32歳のときに滋賀県の三井寺で受戒していて、墓は三井寺法明院にあるということです。この二人は当時、文部省の依頼で近畿各地で、秘仏とされていた仏像を開帳することを説得して回ったことでも知られていますが、中でも法隆寺夢殿の救世観音を開いたときには、寺側が「明治初年に一度これを開こうとした時、たちまち天がかき曇り、雷鳴がとどろき、みんな恐れをなして途中でやめてしまった」 と言って開けようとしなかったそうです。
天心は「雷は私が引き受けるから」と説得して無理矢理扉を開かせたということですが、この時、寺僧は皆逃げてしまったということです。結局何事もなく開帳することが叶ったわけですが、現在法隆寺夢殿の宝物が見ることができるのは、 岡倉天心とフェノロサの尽力があったからこそと言えるわけですね。
また、同じ時代、ラフカディオ・ハーンも40歳のとき
(1890年)に、島根県松江の学校教師として来日しています。後に松江の士族小泉湊の娘小泉節子と結婚し、1896年、46歳のときに小泉八雲という名前を付けて日本に帰化しました。八雲も日本の文化を海外に紹介することに尽力していますが、八雲の場合は、観点が天心やフェノロサとは少し違っているのが興味深いのです。ラフカディオ・ハーンは、アメリカで新聞記者をしていたときに、国際博覧会を取材したことがあったらしく、その時に出品されていた日本の工芸品を見て、こういうものを作ることができるのは妖精しかいない、日本という国はきっと妖精が住んでいるに違いないと固く信じるのです。この思い込みがすごいですね。そして、いつかきっと日本という国へ行ってみたいと決心するわけです。



岡倉天心のことにちょっと触れましたが、奇遇にも今朝の神戸新聞の文化欄で、岡倉天心のことが取り上げられていたのです。
その論調は、天心のアジア観をどう捉えるかという ことですが、このことについては評論家により、これまで様々に論じられてきているようです。
同時代の福沢諭吉と比較して論じられたり、天心をアジア主義者とする論文、それから、そのことを太平洋戦争前後での天心の評価を軸に論じ、それが人為的に作られたものであるとし、天心の本意は日本美術史を書くことにしかなかったと結論付けたもの、ということが紹介されています。岡倉天心の全集は引越しのときに処分してしまったので、いま読み返すことができないのですが、天心に才能を見込まれていた日本画家の横山大観が天心を回想している文に目を通してみると、天心の代表的著書である「東洋の理想」
(原文は英文)はインドで書かれたということです。そこのところをちょっと書き出してみます。昭和26年に発刊されたものからです。
この本 (東洋の理想)は、アジア民族の覚醒と文化優越について書かれたものです。ただ、最初の著書というのは、たまたま 時の英
(イギリス) (インド)政府の忌諱にふれて出版されませんでした。このことから想像されることは、この「東洋の理想」 が書かれた2年後に日露戦争が勃発しているので、そういう 国際的な緊張状態の中で、天心は何か心に期するものがあったのではないかということです。日露戦争といえば、白人と有色人種 による初めての戦争と云えるもので、それまでアジアというものは、白人にとっては植民地としての対象でしかなかったのです。インドもイギリス領だった。それが、日本という国が大国のロシアと戦争をしたものだから、他のアジアの国はたいへん驚いたでしょう、いちばん驚いたのは 白人たちかもしれませんが、とにかく日本はロシアに勝ってしまったのです。
これは世界中が度肝を抜かれたと言っても過言ではない出来事だった。言い方を換えれば、コロンブス以来400年ぶりに世界の歴史の流れが変わるような出来事だったのです。この意義は大きかった。これを期に他のアジアの国々は自信を持つのです。もしこのことがなかったら、いまだにアジア諸国は白人の植民地だったかもしれない、それくらい大きな意義があったと思うのです。そういうことを岡倉天心は直感していたのではないかと思われるのです。
最後に横山大観の回想の中から

岡倉先生というお方は、本当に偉い方でした。 時がたてばたつほどその偉さがわかって来ます。 あれで政治界に志せば大政治家になっていたでしょうし、 その他何でも往くとして可ならざるはなかったでお方でした。いはば異常とも見られる天才児、あのくらいの人は稀で、 要するに大偉丈夫だったのです。



小泉八雲は念願の日本行きを40歳のときに果たすわけですが、その第一印象が「東洋の土を踏んだ日」という文に書かれてあります。

小さな妖精の国、人も物も、みな、小さく風変わりで 神秘をたたえている。青い屋根の下の家も小さく、青いのれんを下げた店も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのであった

それから八雲は日本の文字に強い興味を惹かれたようで、こういうふうにも書いています。
表意文字が日本人の頭脳の中に作り出す印象と、音声の生気に乏しい漫然たる符号に過ぎない、一個ないしは幾つかの文字が西洋人の頭脳の中に生み出す印象とは、格段の開きがある。日本人の頭脳にとって、表意文字は、生命感にあふれる一幅の絵なのだ。生命なき符号に等しい、われわれ西洋の文字に比べて、これらの文字がいかなるものであるかを 理解できるのは、この極東の国で暮らした 経験のある人でなければならない


こうした八雲の日本贔屓に対して、八雲はあまりに日本を持ち上げ過ぎているという批判もあるようですが、それほど八雲は日本という国が気に入っていたようです。だから欧米に対して日本を紹介することに力を入れる反面、急激に西洋化する日本という国に危惧をも持っていた。
日本人の勤勉さと国民性のすばらしさをもってすれば、 いずれきっと欧米を凌ぐ国力を持つに至るだろうが、 それによって失われるものも多いだろう

と心配しているのです。そしてそのことを、将来、日本人は町々にある仏像の微笑みを見ることによって失われたものが何なのかに気付くだろうとも予言しています。
現在、アニメ、和食、和服など日本文化というものが欧米でちょっとしたブームとなっていますが、こうしたことを八雲が知ったらどのように思うのでしょうか・・


その一 その二

その四 その五

その六 その七

その八 その九  

その十 勾玉について

銅鏡の文字について

古代の製鉄について


天日槍について


猿田彦について 


ブログ:歴史について


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