天然砥石の歴史

砥石のことが記載されている文献は、古いところでは奈良時代の正倉院文書(もんじょ)があります。 その記述を紹介します。
まず、
経師等浄衣並雑物充帳(天平十八年正月三十日)砥一面通用充了、即充秦小広とあります。
次に、千部法花(華)経料雑物納帳(天平二十年正月十一日以後)には砥一面可通用之受治田石万呂とあり、東大寺鋳鏡用度注文(天平宝字六年四月二日)には砥二 青砥二村とあります。
それから
奉写一切経所請雑物等解按(宝亀三年八月十一日)砥九顆四顆請経所 五顆収政所
造東寺司奉写経用度解
(天平宝字七年三月十一日)には砥一果 砥一面
右為更写一切経所請如前 天平十八年正月十六日 阿刀酒主 砥九顆宝亀三年二月六日主典正六位上葛井連 砥一十顆 宝亀二年十二月五日 主典正六位上葛井連 大判
官外従五位上美努連 砥弐顆一果請 六年二月九日用損木工等雑刃器磨料
とあります。

以上、東京大学資料編纂所データベース
から引用させていただきました。


時代がやや下り、平安時代の代表的文書に延喜式がありますが、これは手許にあるので、 砥石についての記述がどれくらいあるのか調べてみました。順を追って取り上げてみます。 まず、
巻四
神祗四・伊勢大神宮の条の神衣造の件砥四顆それから砥二顆と記されています。
これは神主の着る衣を作るときに必要なものとして砥石が挙げられているわけですが、どのように使ったかということは記されていません。布を裁つための包丁などを研ぐためのものでしょうか・・。
砥石の数え方にも興味が湧きます。延喜式では果物、冬瓜も「顆」という量詞が使われています。「顆」とは丸い形のもの、土のかたまりという意味があるということなので、この字が当てられているのでしょう。青砥は「顆」と付けられたり、「枚」と付けられたりしています。「枚」は巾に対して厚みが薄い形状のものを数えるときに使いますので、おそらく「枚」と数えられた青砥は研ぎ面に対して厚みが薄いものだったのでしょう。これは用途によって違っていたものと思われます。次に、
巻五
神祗五・斎宮の条には年料供物として砥一顆
造備雑物の件青砥二顆 伊予砥七顆
所須薬種の件砥一顆と記されています。
青砥は丹波・亀岡産のものが有名ですが、この地のものは慶長年間
(17世紀初め)から採掘が始まったということです。そうすると延喜式が編纂された10世紀初めにはまだ採掘されていなかったのかもしれません。
青砥は延喜式では各地の産物として、大宰府
(九州・福岡県)の青砥が産地として記されているのみです。因みに、大宰府管内の地であった糟屋郡かすやのこおりに含まれていた、現在の志免町別府にある横枕遺跡では、弥生時代の遺構から青砥と思われる携帯用の砥石が出土しています。
伊予砥は伊予国
(四国・愛媛県)の特産物ですが、砥石に産地の名が付けられているのは、この伊予砥が最も古く、延喜式にも産地名が付けられている砥石は伊予砥しか存在しま。これが時代が下り、江戸時代になると、「和漢三才図会」や「日本山海名産図会」などに、多く産地名を冠した砥石が登場します。伊予砥は産業としての採掘は現在ほとんど行われていないということですが、さゞれ銘砥のネット・ショップを担当している方が伊予の出身ということで、採掘を始められたそうです。

延喜式に戻ります。最初からまとめてみました。
巻四
神祗四伊勢大神宮の条神衣造の件砥四顆 それと砥二顆の記述
巻五
神祗五斎宮の条年料供物砥一顆 造備雑物の件に青砥二顆、伊予砥七顆 所須薬種の件砥一顆
巻十二 内記位記装束の条 砥一顆
巻十三
図書寮年料紙の条 砥一顆 装コウ科の条 砥一顆
巻十四 縫殿寮年科雑物の条 砥二顆
巻十五
内蔵寮作履科の条 青砥一顆 伊予砥一顆 もう一つ伊予砥一顆
巻十七内匠寮朱漆器の条 伊予砥二箇所 伊予砥半顆 青砥半顆二箇所伊予砥二顆 伊予砥五顆 青砥四枚
柳筥(やなぎはこ)の条 伊予砥七顆 青砥三枚 伊予砥半顆 青砥一枚
御鏡の条 伊予砥 青砥
御帳の条 伊予砥一顆半 青砥一枚
御輿の条 伊予砥一顆半 青砥一枚 伊予砥半顆 青砥一枚
腰車の条 伊予砥二顆半 青砥二枚
牛車の条 伊予砥二顆 青砥二枚
屏風の条厨子の件 伊予砥一顆半 青砥一枚
エリ木一脚の件 伊予砥半顆 青砥半枚
大翳筥の条 伊予砥半顆 青砥一枚
車榻の条 伊予砥半顆 青砥一枚 伊予砥半顆 青砥一枚
輿の条 伊予砥一顆
腰輿の条 伊予砥 青砥
膳櫃の条 伊予砥一顆二箇所 青砥二枚
巻二十三
民部下交易雑物の条 伊予国砥一百八十顆
巻三十三
大膳下菓餅醤味醤造及び魚完等料理の料の条 砥二顆
百度科の条
砥一顆
巻三十六
主殿寮年科の条 砥一顆
巻三十七
典薬寮年科、雑物の条 砥一顆
巻三十八
掃部寮 砥一顆
巻四十主水司もんど つかさ氷室雑用の料の条 砥一顆
巻四十八
左右馬寮馬薬の条毎年馬の蹄作料 砥二顆
巻四十九
兵庫寮大抜横刀の条 伊予砥二顆 あらと二顆 「あらと」は荒砥のことです。


最後に 巻四十九
兵庫寮の中から刀作りについての記述を挙げておきます。

烏装くろつくり横刀たち一口 
長功二十一日、中功二十五日、 短功二十八日

(この記述は作者の腕前の違いによるかかる日数だと思われます)

ハカネ
(鋼) を破りハカネを合わせ、并ならびに刃を打つこと二日。
(削り)并に錯
(研ぐこと)四日。麁砥(荒砥)磨き一日、焼(焼き入れ)
并に中磨き一日、精磨
まとぎ一日、瑩
(仕上げ磨き・艶出し) 一日。
鞘を鐫
(彫り作り)革でツツム作業一日。元漆三遍 (漆の下塗り三回)
このとき塗る毎に一日乾かすこと。中漆
(漆の中塗り)二遍、
塗る毎に一日乾かす。ホの具
(金具)を作ること二日。
麁錯あらすり、精錯
ますり并に焼塗り漆の作業二日。
線縒
(糸より)并に柄纏
つかまきをし、柄・鞘に中漆 (漆の中塗り)
をする作業一日。花漆
(仕上げ塗り)一日一遍。
ホ具及び柄を著するに一日。


原文は漢文で、ルビ、送り仮名が付けられているところはそれに順じました。パソコンで表示できない漢字はカタカナにしておきました。注釈は私の解釈ですので間違っているかもしれません。
間違いなどありましたらご指摘頂くと助かります。





これは江戸時代後期、寛政十一年(1799年)に発行された「日本山海名産図会(絵)」から砥石山の図です。場所は記載されていません。露天掘りのようです。昭和40年(1965年)に発行された「日本の職人」では(参照)「この山は山城国(京都府)と丹波国(京都府と兵庫県 )の境にある原山の砥石山と思われる」と述べられているのですが、その根拠を知りたいところであります。



ここからは砥石に関しての説明です。まずタイトルから
砥礪
といしこまかなるものを砥といひ、粗きものを麁れい といふ。

本文
諺に砥は王城五里を離れず、帝都に随
したがいて産すと云ふも
空ことにもあらずかし。昔和
わしゅう(大和国:奈良県)
春日山の奥より出
いでせし白色の物は刀剣かたなの磨石あわせと
なりしが、今は掘ることなく其跡のみ残れり。
今は城
じょうしゅう(山城国:京都府)嵯峨辺、鳴滝、
高尾に出
いだ物天下の上品、尤
もっとも他に類鮮すくなし。
是、山城・丹波の境、原山
はらやまに産して内曇うちくもり
浅黄
あさき(浅黄・浅葱)ともいふ。又丹波の白谷にも出だせり。
是等ともに刀剣の磨石、或
あるいは剃刀かみそりその余、
大工
たいこう小工しょうこう皆是を用ゆ。
又、上
じょうしゅう(上野国こうずけのくに:群馬県)戸澤砥とざわとは水を
用ひずして磨
とく(研ぐ)べき上品にて、
参河名倉砥
みかわなぐらと(愛知県)は淡白色に斑まだらあり
越前砥
(福井県)は俗に常慶寺じょうけんじと唱となふるもの。
内曇には劣れり。以上磨石
あわせとの品にして
本草是を越砥
えつしと云ふ。いつれも石に皮あり、
山より出す時は
四方に長く切りて馬に四本宛
づつ負う可をキク(規矩)とす。
青砥は平尾、杣田
そまた、南村みなむら、門前、中村、
井出黒
いでのくろ湯舩ゆふね等なり。中ても南村、門前は京より
七里ばかり東北にありて周廻七里の山なり。
丹波に猪倉、佐伯
さいき・さえき芦野山あしのやま扇谷、長谷、大渕、
岩谷、宮川、其外品数多、肥前
(佐賀県・長崎県)に天草




<前の頁最後の一字から続いて>
よしゅう(伊予国:愛媛県) に白、赤等すべてを中砥なかととも云。
もっとも おのおの美悪の品級尽々ことごと弁ずるに遑いとまあらず。
右磨石
あわせと中砥ともに皆山の土石に接まじわる物なれば、
山口に抗塲
しきあなを穿うがち、深く掘入て所々に窓をひらき
榮螺
さざい(さざえ)の燈ともしを携えて石苗いしのつるを逐おひ全く
金山の礦
まぶ(砿)を採るに等しく、石尽きぬればかの○(漢字が
パソコンで表示できません。ルビは「つえ」)
架木を取捨て其山を崩せり。
故に常も穴中崩るべきやうに見えて恐ろしく、
其職工にあらざる
者は窺うかがふて、身の毛を立てり。石質によりて
其工用に充
あつるものは、下に別記す。中ても鏡磨とぎ、
又塗物の節磨くには対馬
つしま(長崎県)の虫喰砥むしくひとなり。
是水に入りては破割物
わるくものなれば、刀磨とぎには
用ざれども、銀細工の模鎔
いがた(鋳型)には適用とす。
但し網
(の異体字)ルビは「あみ」の鎭金いわなどを鋳 いるかた には
伊予の白砥を用ゆ。此白砥は又一奇品にして
谷中に散集
ちりあつまりて、石屑こっぱ久敷ひさしく すれば、
ともに和合し再たび一顆塊
ひとかたまり の全石となるなり。
故に偶
たまたま木の葉を挿 さしはさみて和合し、奇石の木の葉石と
なるもの多くは此山に得る心なり。礪石
あらと
肥前ひぜん(佐賀県・長崎県)の唐津紋口、紀きしゅう(紀伊国:和歌山県)
茅ガ中
かやがなか 、神子ガ濱みこがはま、或は豫 よしゅう(伊予国:愛媛県)



出すものは石理いしめ稍やや精しくわし(細かい)
是等皆掘取にはあらず。一塊を山下へ切落きりおとし
それを幾千挺の数にも領
わかちて出いだす。
工用は、刀剣かたなに台口
(砥)
磨工
とくさや
(主に木賊(とくさ)を用いて磨くためか) に青茅あおかや(砥・紀州産)
白馬、茶神子
ちゃみこ
(砥) 、天草、伊予、又、浄慶寺等
次第に精
くわしきを経て、猪倉、内曇に合あわせて後、
上引をもって青雲の光艶つやを出す。
上引とは内曇の石屑
こっぱくもり、但し鳴滝の地艶じづや
ともいひて猪倉の前に用ゆることなり。
是を刀土ともいふ。剃刀は荒磨
あらとぎを唐津からつ
(砥)(佐賀県)
白馬、青神子、茶神子、天草に抵
あてて、鳴滝、
高尾等に合わせ用いゆ。包丁は、たばこ包丁は台口
(中砥)
平尾、杣田
そまた(砥)等に磨とぎて、磨石あわすには及ばず。
又薄刃菜刀
ながたなの類は荒磨あらとぎ台口、白馬、青神子、
茶神子、白伊予、上は引にて色付とす。銭は唐津、
神子濱
みこがはま(砥)に磨ぎて、豫(伊予国・愛媛県) の赤(伊予砥の赤)
にて
金偏に差)みがけり。大工并箱細工、指物等は門前、
平尾、杣田の青砥にうけて、鳴滝、高尾等に磨あわす。
料理包丁は山城の青。小刀は南村。竹細工は天草。
針毛抜は荒磨あらとぎを土佐にて、豫рフ白
(伊予砥の白)
赤に
(金偏に差)みがく 。形彫かたほり
豫рフ白。
紙裁
かみたちは杣田そまた(砥) 。大抵かくのごとし。
およそ工用とする所、硬き物は柔和やわらかなるに抵あて
柔軟
やわらかなるは硬きに磨とぐとはいへどもただ金質、石質
相和
あいわする自然ありて、一概には定めがたし。



以下、まとめて現代語に訳してみました。 間違いなどありましたらご指摘して頂くと助かります。

諺で「砥は王城五里を離れず、帝都に随したがいて産す」と云うが、これはあながち空言ではないだろう。言い方を換えれば、都は砥石が採れる所に築いたとも云える。それほど砥石は重要だった。

昔、奈良県の春日山という所で採掘されていた白い砥石は刀剣の合わせ砥として使われていたが、今では掘られておらず、その跡だけが残っている。現在では京都の嵯峨近辺にある鳴滝という所、あるいは高尾という所で採れる砥石は最上のものとされていて、他の地域のものはこれに及ぶものは少ない。
京都と丹波の境にある原山という所で採れるものに「内曇り砥」や「浅黄」がある。これは丹波の白谷という所でも採れる。これらの砥石は刀剣や剃刀
(カミソリ)の合わせ砥
(仕上砥石)として使われる。大工やその他木工職人は皆これを使っている。
群馬県で採掘されている戸澤砥
とざわとは水を使わないでも研ぐことができるほど優れている。愛知県で採れる三河名倉
みかわなぐらは淡白色で斑まだらがある。福井県で採れる砥石は常慶寺じょうけんじ砥と呼ばれている。これらは内曇りには劣っている。以上が合わせ砥の種類で、これらを総じて越砥えつしと呼んでいる。

砥石にはどれにも皮というものが付いていて、山から掘り出すときは四方に長く切るが、その大きさは馬が四本背負うことができる大きさにする。青砥は平尾、杣田そまた、南村、門前、中村、井出黒いでのくろ、湯舩ゆふね、等で採掘されている。その中で、南村、門前は京都から28kmほど東北にあって、周りは深い山である。丹波に猪倉、佐伯
さいき・さえき、芦野山、扇谷、長谷、大渕、岩谷、宮川という産地がある。その他砥石の産地は多く、肥前(佐賀県・長崎県)では天草という砥石が採れる。四国の愛媛県で産出される「伊予砥」には白いものと赤いものがあり、中砥とも呼ばれている。これまで紹介した各産地の砥石の品質、等級については様々に論じられてきているが、それは今でも変わらず、使った人々により口々に品定めされている。

合わせ砥、中砥といったものは、皆山の土石に混じっているものなので、山に穴を掘り、深く入って所々に窓を開き、サザエに油を入れた灯明を携えて砥石の鉱脈を探すのであるが、これは全く金山の鉱脈を掘るのと同じである。砥石が無くなれば杖架木を取り外してその山を崩し、新しい鉱脈を探すのである。その穴の中はすぐにでも崩れ落ちそうで、慣れた職工でなければ、穴を見ただけで身の毛が立つほどの恐ろしさである。

砥石の質により使われる刃物との相性があり、鏡磨き、又塗物の節磨きには対馬産つしま
(長崎県)の虫喰砥むしくいとが向いている。この対馬の虫喰砥は、水に入れておくと割れるので、刀研ぎには用いないが、銀細工の鋳型には向いている。「アミ」の鎭金いわなどを鋳造する場合の鋳型いがたには伊予産(愛媛県)の白砥を用いる。この白砥の生成は珍しく、谷の中に散集した石屑が長い時間をかけて固まり、再たび一つの塊かたまりとなるのである。そういったことなので、たまたまそこに木の葉などがあると、それを挟んだまま固まってしまうことになる。奇石の一つである「木の葉石」と云われるものの多くはこの伊予の山で得られるものである。
荒砥は肥前
(佐賀県・長崎県)の唐津紋口、紀伊(和歌山県)の茅ガ中かやがなか(茅ガ中は産地名ではなく紀州産のとくに目の荒いものをこう呼ぶ)、神子ガ濱みこがはま、或は伊予で産出され、石質はやや細かい。これらの産地では掘って採掘されるものばかりではなく、露出した大きな塊を山下へ落とし、それを数千の数に切り分けるものもある。用途は、刀剣鍛冶には台口砥が使われ、磨工には青茅砥あおかやと、白馬砥、茶神子砥ちゃみこと天草砥、伊予砥が使われる。
刀剣を研ぐ場合は、この後、浄慶寺砥など次第に細かい砥石を使い、猪倉砥、内曇砥に合わせ、最後に上引という工程を行い青雲のような光沢を出す。上引とは内曇の石屑
こっぱで刃を磨ぐとぐことを云い、鳴滝砥では地鉄じがねを磨き上げる。剃刀は荒研ぎを唐津砥、白馬砥、青神子砥、茶神子砥、天草砥で行い、仕上げには鳴滝砥、高尾砥等を用いる。
たばこ包丁は台口中砥、平尾砥、杣田砥
そまたと等で研ぎ、仕上げ砥は使わない。また、薄刃包丁、菜切り包丁などは荒研ぎは台口砥、白馬砥、青神子砥、茶神子砥、白伊予砥を使い、上引をして色付をする。銭(硬貨)は唐津砥、神子濱砥みこがはまとで磨いて、赤伊予砥で磨きあげる。大工や箱細工、指物等は門前産、平尾産、杣田産の青砥で中研ぎをし、鳴滝砥、高尾砥等で仕上げる。料理包丁は京都産の青砥を用い、小刀は南村砥、竹細工は天草砥を用いる。針毛抜は荒研ぎを土佐(高知県)砥で行い、伊予砥の白または赤で磨きあげる。形彫かたほりは伊予砥の白を使い、紙を切るには杣田砥を使う。
およそこのように使われている。一般に、硬い刃物は柔らかい砥石を使い、柔らかめの刃物は硬い砥石で研ぐと云われているが、刃物と砥石の相性もあり、一概には決められない。




室町時代末〜江戸時代初め(1600年前後)に狩野派の絵師・狩野吉信
によって描かれたとされる喜多院・職人尽絵屏風から刀剣研ぎ師。




同じく「傘師」の絵。画面右奥に砥石と思しきものが3点ほど見えます。



江戸時代、享保十五年(1730年)に刊行された「絵本通宝志」から金工師の図。大きな砥石と小さな砥石が水を張った桶の中に重ねて入れられています。この時代の金工師といえば刀の拵えの金具である刀装具、それから携帯用の筆記用具である矢立などを作っていました。江戸幕府お抱えの金工師、後藤家はその代表的な作家でした。この図の右側には女性が描かれているのですが、魚子ななこ細工など、細かい作業は女性が専門に行っていたということです。



これは江戸時代の初め、貞享じょうきょう二年(1685年)に刊行された「和国職人絵尽くし」に収められている「賽摺り師」の絵です。絵師は菱川師宣。水を張った盥の中に大きな砥石が入れられています。サイコロの材料は鹿の角のようです。角を切る鋸の形状が興味深い。



参考までに、この絵は江戸時代初めの象牙細工師。奥に見えているのは旋盤加工を行うための手回しの轆轤ろくろ。手前には出来上がった製品が描かれていて、三味線の撥や茶入れの蓋、絡子環らくすかんが確認できる。絡子環は僧侶の袈裟に付けるもの。



これは刀剣研ぎ師の絵ですが、現在の研ぎ方と違って、これも盥の中に砥石が入れられています。幕末の写真参照下さい。



これは江戸時代中頃の研師の図(職人尽発句合から)



これは江戸時代の中頃、宝暦四年(1754年)に刊行された「日本山海名物図会」に収められている版画図で、大阪・堺の包丁専門店の様子です。店の奥では包丁が打たれていますが、手前では大きな砥石で包丁が研がれています。「日本山海名物図会」は先に紹介した「日本山海名産図会」とは別物です。名前がよく似ていますが「日本山海名産図会」は寛政十一年(1799年)に刊行されたものです。名物図会の方には砥石は取り上げられていません。
参考:京都伏見の鋸鍛冶について




これは江戸時代の初めに画家・海北友雪(かいほう ゆうせつ)によって描かれた「職人絵尽」(描かれた年代は不詳)から、「漆細工師」の絵です。奥に水を張った盥と砥石が描かれています。



「指物師」の図。
弟子と思しき若者が刃物を研いでいます。




「縫針師」の図。
針を砥石で仕上げているのでしょうか・・




たばこの葉を刻むきざむ「煙草切師」の図。
上に紹介した「日本山海名産図会」では、たばこ包丁は台口中砥、 平尾砥、杣田砥等で研ぎ、仕上げ砥は使わない、と説明されていますが、そうすると、この絵の砥石は杣田砥かもしれません。




「刀研師」の図。砥石がずいぶん大きいですね。



江戸時代、文化二年頃に描かれたとされる熈代勝覧から
研ぎ師。

その他の職人絵はブログでも紹介しておりますので参照下さい

その1 その2



これはヨーロッパの研ぎ師です。1568年ドイツで出版された職人図に掲載されているものでが、さすがにヨーロッパでは合理的に研いでいます。それでも手前には日本と同じように水が張られた桶と砥石が置かれています。
ヨーロッパにも水砥石が存在していて、今でもベルギー産の砥石は手に入れることができます。私も中砥を一つ持っていますが(参照)、色は青砥と同様で、研いだ感じは三河中名倉とほぼ同じです。匂いもよく似ています。よく反応し、強い研磨力があります。




江戸時代の中頃、正徳二年(1712年)頃に出版された「和漢三才図会」
(当時の百科事典)巻六十一から「砥石」の項。判る部分だけ読み下してみます。間違いなどありましたらご教示いただけると助かります。
大きな画像はブログで紹介しております
参照下さい

この項目の砥は物を磨く石である。石の粒が細密なものを砥と云い、荒いものを礪あらとと云う。人がもしこれを踏めば帯下を患うと云われているが、その理由は分かっていない。また、刀を研いだ後の研ぎ汁は龍白泉と名付けられ、結核による腫れ物に塗るのに用いられる。中国の三才図会には、砥は首陽山に紫白粉色のものがあり、南昌に出るものが
最善とされていると記されている。按ずるに、希に物を研ぐのに木を用いていたので○
(パソコンで 表示できません。音はシ)という字をあてたのだと思われる。今では石を用いるが、これは○(かすれていて判読不能)の石ではなく、土が凝固したものである。山を掘ってこれを取るが、瓦土のようであり、数種類ある。包丁砥としては青色のものを青砥と云う。山城(京都府)産のものを上とし、丹波(京都北部から兵庫県東部)産、周防すおう(山口県)産のものがこれに次ぐ。刀剣砥としては淡白色の三河みかわ(愛知県)産の名倉砥を最上とし、山城国嵯峨で産する内曇砥がこれに次ぎ、越前(福井県)の常慶寺村産のものが又これに次ぐ。剃刀カミソリ砥としては淡白色のものを用いる。山城国鳴滝産のもの及び上野こうずけ(群馬県)産のものを上とし、丹波○○(かすれて判読不能)産がこれに次ぐ。
荒砥としては肥前天草
(長崎県)に産するもので赤に白が混じってモクメ(木目)があるものがある。これを天草砥と云う。伊予国(四国・愛媛県)に産するものは淡い白、あるいは淡い赤のものがあり、共に木目がある。様々な刀の新刃あらはを研ぐのに用いる。あるいはこれで安価な硯が作られたりする。紀伊国(和歌山県)神子浜みこがはま、肥前唐津(佐賀県)でも
あらと
が産出されている。その他述べ尽くすことができないほど産地は多くある。砥石山のまだ砥石にならない状態のたいへん柔らかいものを取り、これを天日に干して乾かし、水をかけ団子状にしたものを砥粉とのこと云う。
漆工家がこれを使うときには、また粉末に戻し、漆、飯糊
ひめのり水を混ぜ合わせ漆器の下地を塗る。これを地錆じさびと云う。その上に漆を塗って仕上げる。そうしなければ肌が密こまやかにならない。龍白泉(研ぎ汁)は黒茶色に染めるのに用いられる。俗に憲法染めと云う。布・帛を藍で染め、柘榴ざくろの皮、五倍子ごばいしを煮熟し、その汁でまた染め、研ぎ汁に一晩浸しておく。この汁は陳久(古いもの)がよいとされている。こうして染めたものは鉄漿染めよりも勝れていて、また丈夫で破れにくくなる。



これは江戸時代中頃、元禄初めに出版された(18世紀後半)「人倫訓蒙図彙」から砥屋と材木屋。砥石屋の説明には、
諸国より出る。山城の高尾、鳴滝砥は剃刀カミソリ砥の名物也。中略 京都油小路、押小路をはじめ所々にあり。大阪は横掘にあり材木屋の説明には、京都堀川通り竹屋町より上、其の外所々あり。白木や、木曾を初め諸国より出る檜をあきなう。檜物師、仏師を初め、檜を使う者これをもとむ。

とあります。




左は「たばこ屋」の図です。脇に盥に浸けた砥石が置かれています。
説明文
 丹波、吉野、高崎、新田、其他国々のたばこをかい、これをあきなふ。割師きざみし、此所にてかふきざみは、大津柴屋町よりはじめしとかや。駒台やあり。包丁は堺よりいづる。黒うち、三文字石わりよし。代弐匁なり。
ここ丹波地方は、今でもタバコの葉の栽培が行われているようですが、世の中が禁煙傾向にあり、その量は少なくなっているようです。右の図は硯師です。この図でも盥に浸けた砥石が描かれています。硯は主に粘板岩で作られるようですが、粘板岩は比較的柔らかく、鋼で充分に削り加工することができます。和漢三才図会で説明されているように、安価な硯は伊予砥でも作られていたようです。



これは室町時代後期の明応九年(1500年)頃に成立したとされる
「七十一番職人歌合」に載せられている研ぎ師の図。
絵師は土佐光信。先に紹介した和国職人絵尽くし」の研ぎの図と違い、
砥石は水盥に浸けられていません。

歌合
(うたあわせ・現在行われている「詩のボクシング」 と同じ。
他には順徳院琵琶合、源氏物語の絵合がある)


左の歌
(ボクシングに例えるならば赤コーナー)
いかにせん 砥がすもいらぬ つるぎ太刀 峰なる月の
さびのこる哉


(青コーナー)の歌は
眺むとて ぬる夜もなきに 荒漆 刷毛目も合わぬ 村雲の月

判定
左歌、五文字かなはず聞こゆ。峰のあしらい、
あらまほしくや。
右は荒漆の刷毛目合はぬを村雲にたとえたるか。左右、
ともにさしても聞えず。持
にて(引分け)はべるべし。



江戸時代の石の研究者である木内石亭の著書「雲根志」から、砥石に関する記述。 安永二年
(1773年)に前編を発行、7年後の安永八年(1779年)に後編を、補遺は享和元年(1801年)に発行されたということです。


本邦
ほんごくに産所甚はなはだ多し。梨目青砥等種品又多し。よって大略をここに出す。近江国(滋賀県)砥山高島産仕上砥、三河国(愛知県)名倉砥、上野こうずけ(群馬県)戸沢砥、紀州(和歌山県)神子浜砥みこがはま(砥)、但馬たじま(兵庫県)諸磯砥、筑後(福岡県)天草砥、対馬つしま(長崎県)の青砥、山城国(京都)北山、高尾に名産あり。高尾砥といふ西行の歌に
高尾なる 砥取の山のほととぎす おのが刀をとぎすとぞ鳴く

但馬砥は一時途絶えていたということですが、最近また掘られて
いるようで、専門店などで売られているのを見かけます。
ここで紹介されている諸磯砥は諸寄砥のことでしょうか・・



古事類苑に掲載されている砥石についての項目を紹介しておきます。これまでこの頁で取り上げなかった分で、参考になりそうなところを抜粋しました。和文のものは現代語風に訳し、漢文のものは現代語風に読み下しましたが、パソコンで表示できない漢字はカタカナで表記しました。( )内は私の注釈です。間違いなどありましたらご教示頂くと助かります。

雍州府志
(ようしゅうふし・浅野家に仕えた儒医で歴史家の黒川道祐(?-1691)のまとめた山城国の地誌)から六・土産の条(原文は漢文ですが現代語風に読み下しました。)

礪砥
れいし(砥石)
砥石というものは数種類ある。細礪石
さいれいせきは俗に云う真礪しんれい?(仕上砥)である。庶礪石は阿羅斗あらと(荒砥)。カン・ショは青礪石(青砥のことか?)である。細礪石は洛西(京都西部)の鳴瀑山鳴滝山なるたきやま近辺で良質のものが掘り出されている。 麁礪石それいせき(荒砥)としては瓶原みかのはら(奈良県北部)に産するものを用いることができる。本阿弥一家は中古(室町時代)より公方家くぼうけ(将軍家)の刀剣研磨に従事している。専ら鳴滝砥(仕上砥)を用いるので、近年あらかた掘り尽くしてしまい、今では高尾(京都北部)産のもので 間に合わせている。よって鳴滝山は他人が濫りに採ることを禁じている。これを止山と謂う。日本の一般的な山では材木や松茸など、又、川の妙石(珍しい石)や魚類はその土地の所有者だけが採る権利を持っていて、他人が濫りに採ることを禁じている。これを止山、止川と謂うのと同じ意味合いである。薪や柴については鎌止と謂う。同様に河内国かわちのくに(大阪府)では、宮廷による狩遊びの場とされていた野原は禁野と称し、鳥獣の捕獲が禁じられていた。このように、鳴滝山中の石は悉く採ることを禁じられていた。鳴滝山の砥石は色は淡白で所々に紅色の條理
(筋)がある。石質は柔らかで、採掘用の鑿ノミで容易く思いのままの形に加工することができる。


本草綱目訳義十 石の条 越砥
えつし
(古事類縁では漢字片仮名の和文で表記されていますが、片仮名は適宜漢字や平仮名に直し、現代語風に訳しました。)
越砥とはカミソリ砥、合わせ砥のことを云う。細かい上品な磨き石
(砥石)である。なかでも越国こしのくに(越中・えっちゅう・富山県)と越後えちご(新潟県)に産するものは品質が優れているので越砥と称されている。釈名
しゃくみょう(貝原益軒著「日本釈名」のことか?)にある「磨刀石」というものは砥石の総称である。礪石れいせきというものは「アラト」とも云い粗い砥石である。カミソリ砥は山城(京都)では鳴滝産が上質である。また高尾でも採掘されている。京都・鷹峯たかがみねの金地院の領分からも産出する。また、濃州(美濃国・岐阜県)でも産出し、これを戸沢砥と云い、上質の砥石である。これらに次ぐものとして、丹波(京都西北部)大内砥というものが採掘されている。同じく江州(近江・おうみ・滋賀県)で産出する砥石も次品である。以上は皆カミソリ砥である。刀剣を研ぐ砥石はカミソリ砥と同様に越砥と称されるが別物である。これは和州(大和国・奈良県)の春日山に産出するものが上質である。春日砥と称し、色が白くやや潤いがある感じであるが、これは今では採掘されていない。また、三河みかわ(愛知県)に名倉砥なぐらとという砥石があり、これも上質である。
山城
(京都)では鳴滝で産出する内曇うちぐもりというものが上質であるが名倉砥には及ばない。同様のものとして越前えちぜん(福井県)常慶寺砥というものがある。これは俗に「じょうけんじど」と呼ばれている。この他に「リドラウヒキ砥」などというものがある。これら漢名はみな越砥
えつしである。また漆塗りの節をしがき落とす(削りおとす)砥石がある。これは対馬つしま(長崎県)に産し「むしくい砥」、「つしま砥」、「とぎいし砥」と云う。色は薄青黒く、肌は緻密だが小さな穴が多くある。それで「むしくい(虫食い)砥」と云う。これは釈名の羊肝石と云い、又一名、鶏肝石と云う。
輟耕録
てつこうろく(中国明時代の陶宗儀により書かれた随筆)に取り上げられている。嵯峨(京都西部)の臨川寺あたりの河原にある砥石を臨川寺砥と云う。これは黄味がかった薄黒い色で、一分(約3mm)ほどの厚さに細かくへげる
(剥げる性質がある。鶏肝石の一種と思われる。
又、アラド
(荒砥と云う青黒色のものがあり、主に包丁を研ぐのに用いられるので別名包丁砥とも云う。これは山城(京都)では木屋川砥(こやかわ砥)、あるいは三つ石砥と云い上質である。この他、丹波の蘆の山あしのやまに産するものを蘆の山砥、防州(周防国・すおうのくに・山口県)岩国に産するものを岩国砥(杭名砥)、京都の清閑寺に産するものを清閑寺砥、紀州(紀伊国・きいのくに・和歌山県)神子ガ浜みこがはまに産する神子砥みこどと云う。以上これらは皆包丁砥として使われている。漢名は玄シュク(石偏に肅)、山海経に出ている。正字通ではジュウ・ヨウとも記載されている。釈名で取り上げられている礪石れいせきというものは、先にも述べたようにアラト(荒砥)のことである。これは肥前島原産よりも肌が粗い。また肥前の呼子よぶこ(佐賀県)松島、宮川にも産する。同じく肥前の唐津からつにも産するが、これは質がよくない。同様のものは與州(予州・伊予国、四国愛媛県)や土州(土佐国・高知県)に産し、これらは肌理が細かいが質は天草砥に及ばない。紀州(紀伊国・和歌山県)神子ノ浜みこのはまに産するものは質が良くない。又、丹波に産する佐伯砥は荒めの砥石である。同じく丹波の猪倉からも佐伯砥と称される砥石が掘られている。又、丹波の神崎こうざき(京都府亀岡市神前「こうざき」と思われる)にも産し、神崎砥と呼ばれている。これらは皆荒めの砥石である。

様々な砥石を使った研ぎの動画(及び砥石採掘事情)
昭和45年(1970年)に出版された「刃物に関する諸材料」
(著者・内田宏顕)と昭和63年(1988年)に出版された
橋本喜代太原著「木工の手道具」から、
当時の砥石採掘事情も抜粋して紹介しています。

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天然仕上げ砥石について

その二
  その三

梅ヶ畑村誌  

砥石いろいろ

昭和4年出版の「刃物の研ぎ方」

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