京都・伏見の鋸鍛冶について

江戸時代になると、それまで大量に作られていた刀剣の需要が減少し、刀剣鍛冶職人は一般刃物鍛冶職人へと転職していったことは容易に想像できます。そうして、こうした諸職人による自主的な生産活動が活発になっていき、商品は広く世間に流通するようになっていったことも想像に難くありません。
その一例として、当時の四天王寺
(大阪)の様子を挙げることができます。平澤一雄著「鋸:産業文化史」によると、四天王寺は諸工の信仰の中心となっていて、毎月行われた太子講などによる参詣者の数も多く、鋸をはじめ諸工具類の定常的な需要が多くなっていったということです。技術的な面では、当時の素材鋼である和鋼の実情から考えると、鋸を鍛造するのも刀剣を鍛えるのも、その初期工程においては何ら変わりがなかったものと考えられ、鋸鍛冶の中には、宮野、谷口、田中、両角、小林、五味、大場 といった本来の性を名乗るものが多かったようですが、伝統のある「中屋」とか「二見屋」 といった屋号を称えるものも少なくなかったようです。
かつての京都は、長い間政治の中心地であったこともあり、諸産業も大いに栄えていて、とくに伏見は古くから大阪と水運の便が開けていた上、大和大路と東海道の要にあり、また伏見街道沿いに稲荷神社があり近畿地方の信仰の中心となっていたため、早くから発展していた所でした。




「京都府伏見町誌」から江戸時代中頃の伏見街道の様子
参照拾遺都名所図会



同じく伏見から京都へ向かう竹田街道の様子
参照拾遺都名所図会



伏見稲荷の様子寛政11年・1799年刊行の都林泉名勝図会から)

その伏見の地での鍛冶の起源は室町時代まで遡ることができるとされています。当時の文献から推察すると、鋸鍛冶の中屋家は大鋸など山林用鋸を得意とし、江戸時代の初頭にはすでに鋸鍛冶の名門として名が通っていたようです。文献によれば延宝六年(1678年)
当時では、京都市内や伏見の所々に鍛冶や金物店が多く存在し、特に人馬の往来の頻繁であった三条大橋から伏見に通ずる伏見街道沿いには、多くの鍛冶集団が見られたということです。中でも、方広寺大仏殿前より東福寺前あたりには諸鍛冶が軒を並べ、この中には鋸専造鍛冶も多かったということで、昭和4年(1929年)発行の「京都府伏見町誌」には




と説明されています。現代の当用漢字で書きますと、「鋸 伏見鋸の沿革は古きも旧記を存せず、伝ふる処によれば、初め東中屋某
(今より400年余前と云ふ)之を創め、次いで西中屋某、谷口家之が製作に着手し、中屋家は関東地方、谷口家は関西地方に販路を有せりと、天明年間(1781年〜1789年)最も盛にして製作戸数40余戸に上れり、伏見鋸の特色は石見(いわみ:島根県西部)産の 出羽鋼いずは はがねを用い、十分の鍛錬を施し、砥汁を以て焼を入れたれば、刃先の忍耐力強く、しかも鑢ヤスリには極めて軟なりとせられ、夙つとに重んぜらる、近時 名古屋方面に大量生産を為し市場に供給せらるるに及び、伏見鋸も一層改良を加へられたるも、未だ大量生産を為すに至らざるは、旧来の特色を保持するに由るよる、昭和元年(1926年)生産42400枚、価格5万9千円。」
次の行からの漢文風の字を読み下しますと、雍州府志には所々の鍛工が鋸を打ち、その内鋸を専門に造る家の多くは天王寺屋
(これはほとんど京都鋸のことを言った)という屋号だったが、それは大阪の天王寺の門前鍛冶が始まりとされている。日本では俗に山人木客はと言い、新秋から初冬まで材山に入り、材木を伐り取っていた、その時に用いる大鋸おがは伏見の中屋で鍛えられたもので、杣人は好んで之を求めた。

伏見の鋸鍛冶、東中屋家、西中屋家、そして谷口家などの存在は16世紀前半まで遡ることができるということですが、「京都府伏見町誌」で説明されているように、中屋家は関東方面に、谷口家は関西方面との繋がりが強かったということです。時代が下り、政治の中心が江戸に移ってからは、江戸と大阪、又名古屋と大阪との間に海運の便が開け、通商の主導権が大阪に移って繁栄していくのに対して、京都伏見の産業界は鋸業も含めて次第に衰退していったようです。
さらに鋸の生産量に於いても、播州
(兵庫県南部)三木が京都伏見をしのぐようになり、加えて三木の鋸鍛冶による伏見製前挽大鋸の偽造事件が大きく影響して、伏見の鋸業界、特に関東方面との繋がりが強かった中屋家は大きな打撃を受けたということです。
そういった経緯のためか、その後の京都伏見の中屋家の存在を伝える記録はほとんど見受けられず、わずかに天保九年
(1833年)、伏見の金物問屋中屋清兵衛が名古屋と取引をしていた形跡が認められるくらいだとされています。 一方、谷口家は関西方面との繋がりが強かったこともあり余命を保っていたらしく、このことは、後に谷口家があたかも伏見鋸の 元祖であるかのような言い伝えとなっていく要因ともなったようです。この谷口家は昭和30年頃まで鋸鍛冶をやっていたということです。
昔は、鋸の中でも木挽き職人が使った前挽大鋸といわれるものは、現在のように電動の製材機械がなかった時代では大変重要なものでした。そういう重要な仕事をするための道具であるため、昔から職人たちは、この大鋸の吟味にはとても気を使っていたということはよく耳にします。人づてにあの鋸は良く切れると耳にするや、手に入れるためにはどんな苦労も厭わなかったとことは、逸話として多く語り継がれています。木挽の仕事は大変な重労働であるため、道具に助けられるということは死活問題でもあったわけで、真剣さの度合いが違ったのは想像に難くありません。







上に紹介した時代とほぼ同時代に発行された「和漢三才図会」から鋸の図




鈴木俊昭 著「続・日本の大工道具職人」によると谷口系の鋸鍛冶として谷口清兵衛、谷口清次郎、谷口清三郎、谷口清三、谷口清右衛門が挙げられています。上の画像は手持ちの谷口清三郎銘のガガリ鋸を使っている様子

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