日本の歴史について その十

古代の日本列島へ移住してきた民族については、これまでいろいろと取り上げてきましたが、以前、古代日本列島への移住者について考察を行ってきた先人について紹介したことがあります(参照)。
それに関連して、古代文字を調べた際に佐々木照山の研究を知ることができました。そのことについて少し述べようと思います。
この人は、明治43年
(1910年)に「2900年前・西域探検日誌」という本を出版しています。この著書は、先にリンクして紹介した「日本の歴史について・その九」で取り上げている浜田秀雄の「契丹秘史」や、その元となっている、浜名寛祐の「日韓正宗遡源」が出版される以前に出版されているものです。
同じ時代には、石川三四郎の「古事記神話の新研究」や「東洋古代文化史談」が出版されていますが、佐々木照山の「2900年前・西域探検日誌」は、その破天荒ぶりには目を瞠るものがあります。漢字に関しては、白川静氏による優れた研究がありますが、その説をもひっくり返すかもしれないほどの説得力があるのです。

佐々木照山は本名・安五郎、明治5年
(1872年)山口県生まれ。幼少の頃から豪放磊落、機敏で胆略だったということです。成人してからは、地元の小学校教諭をしていたが、中国に対する関心が高まり、17歳の頃に熊本の九州学院に学び、中国語を修得。その後、日清戦争の際に通訳兼百人長として満州に渡り、戦後は乃木希典が総督をする台湾総督府に勤めています。明治30年、25歳のときには総督の交代による総督府の意向に反発して退職、自ら雑誌「高山国」を発刊、また、台湾民報主筆となって総督府の植民地政策の過ちを攻撃したとされています。明治37年32歳のとき、当時、奈良の山林王と云われていた土倉鶴松の依頼で、内蒙古(モンゴル)内地の鉱脈探査に携わり、探検を行っています。この時の経験が、照山の、後の東西文明の起源を探るきっかけになったようです。同時に政治活動も続けていたようで、国民党の製策や活動に与して、当時の孫文による中国革命に助力し、加えてモンゴルのトルホト王を説得懐柔し連れ帰っています。このことにより佐々木照山の名は広く知られるようになり、「蒙古王」の異名で呼ばれるようになります。
明治41年、36歳のとき、郷里山口県から国民党所属代議士として衆議院議員に当選し、明治43年には同士と共に立憲国民党を結成しています。その後、大正3年
(1914年)の衆議院総選挙では第3位当選を果たしています。照山の、大衆を前にした演説や、国会での振る舞いは、現在の田中真紀子議員を彷彿とさせるような存在感と人気があったようです。考古学に深い興味があった照山は、議員時代には、遊説先に古代遺跡があると演説そっちのけで遺跡見学に出向いていたということです。




「2900年前・西域探検日誌」は、佐々木照山が衆議院議員に初当選した頃に、読売新聞に毎日連載されたということで、ですから明治41年(1908年)、照山36歳の頃ということになります。本として出版されたのが明治43年ですから、1〜2年連載されていたことになりますが、出版されたものは連載されたものの一部だったということです。これは上巻として出版されていますので、後に続巻の予定があったようですが、結局は出版されませんでした。この一巻は照山の62年間の生涯唯一の著書ということになります。これは平成12年に八幡書店から復刻版が出されています。出版されたものには、新聞連載中の読者からの手紙の内容や、それに対する照山の返事も載せられています。また、新聞に掲載された際の照山の感想も載せられており、担当者の漢字の知識が乏しいのを嘆いている文が、そのまま本として出版されているのには驚きます。
新聞連載の読者からの書簡は、照山の述べる日本語の語源に関するものが多かったようで、照山のそれまでには全くなかった観点からの解説に、読者は驚きと畏敬の念を抱いて瞠目していたことが、よく伝わってくるのです。
照山の主張は、世界の人種とその言語、宗教はその源は一つであり、世界文明の大本はウラルアルタイ語派のアッカド人種(古代オリエント)で、インドもバビロンも中国もそれを源としているというものです。ですから、中国文明の産物とされる漢字は、アルファベットの原型でウラルアルタイ語を綴ったものが複合凝結して形を成しているものなので、漢字を分解すれば元のウラルアルタイ語に復帰するというのです。その一例を紹介します。
まず「寒」という漢字について。この字はウかんむりとその下の部分に分け、ウを属としてその下の部分を主とするとしています。

主部であるの上部のは片仮名のキが横に二つ並んだもの。

その下のは片仮名のオの原型(参照)。

そして最後のは、片仮名のンだということです。

このことから、は「キキオン」という字の合成されたものということになり、ローマ字にするとkkonとなるとしています。
これを反切で表すと、「集韻」 「韻会」 「正韻」それぞれの字典では共通して河干切となっているということで、「唐韻」という字典では胡安切とあるそうですが、この「安」はガンと発音するということです。つまりkkonは「コガム」あるいは「カガム」と発音するということになります。これは「屈む」、つまり寒いときに体が丸まることを表しているということになり、この言葉は蒙古
(モンゴル)語ではチヂカグンと云うそうですが、これは日本語の「縮こまる(チヂコマル)」と同じ意味だと思われます。魚の煮汁が冬に固まることを「煮凝り(ニコゴリ)」と云いますが、このコゴリの「ゴ」は「ホ」の変音で、コホリは氷、コホルは凍るということになります。照山によれば、英語のコールド(cold)も元はコホルドで、その大元はコゴルドであるとしています。




それでは次に、白川静氏による「寒」という字の解説をみてみます。
白川説では寒の字の金文ので説明されています。
まず、ウかんむりにあたるは「べん」で建物の屋根の形とされています。それからその中のは、「ぼう」で草、は人で、
は「ひょう」で氷のことだということです。

これらをまとめて、屋根の下に草を敷きつめ、そこに人が居て、その下に氷がある。つまり、寒さを避けて草を敷きつめる形で「さむい」という意味を示しているとしています。
状況はよく解りますが、よく考えてみると、なぜその状況になっているのか不可解でもあります。屋根の下に氷があるので、状況は壁に囲まれた建物の中ではなさそうです。では屋外で屋根の下にあたるところといえば軒先か、それ以外では、何かの目的で屋外に孤立して建てられた小屋のようなものということになるのでしょうか。もし、そういった建物の屋根の下に居る状況が寒いとするには、それなりの理由があるはずです。ただ寒い状況だったら、真冬であったなら暖房が効いていなければどこに居ても寒いのですから。
ここのところは白川説では何も説明されていません。


一方、照山はこの「寒」の字を象形文字としての解説も行っています。
それによると、寒の象形文字はとしています。これの出自は述べられていません(このことなどから照山説は牽強付会であるとの批判もあります)が、構成要素は金文と同じです。これは観音開きの格子扉のある建物に水が供えてある象形であるとしています。つまり観音堂のような祠堂のことです。照山によると、太古遊牧の時代には貴重な水の湧き出る所は祭られていて、モンゴルではこれをホトカと云っていたということです。これは佛(ほとけ)のことだとしています。佛は人偏ですが、この偏が水(さんずい)になると沸くという字になります。湧水の湧くと同義ということです。つまり湧水のある所は水神様がいるということで、それを崇敬し祭ることになる(日本では、こういった所では弁才天が祀られていますが、これは何か暗示的なものを感じます)。照山はここのところの説明では、水の語源やホトカから生じた「程」という字についても多く説明を割いているのですが、それは省略して、次に進みたいと思います。
湧水のある所に寒字形の祠堂を建て水神を祭った際の神事、儀式を行うときには、それを執り行う人は上半身は正装するが、下半身は裳袴などは付けず、跣足
(はだし)だったということです。そのことを裏付ける例もいくつか挙げられていますが、それも省略し、つまり、寒字形の祠堂の前で儀式を行う人は下半身が寒い恰好なので「さむい」という字にこれが当てられるようになったとしているのです。




先日、平家詞曲相伝者の鈴木まどかさんから連絡があり、まどかさんの祖父に当たる「鈴木らかん清作」という人が撮影した佐々木照山の肖像写真があるというのです。これには大変驚きました。照山の写真はインターネット上にも見られず、「西域探検日誌」に、モンゴルのトルホト王といっしょに写っているものが一枚掲載されているくらいです。復刻版が出されている八幡書店のご好意で、その画像の転載の了解を得ることができましたので、まずそれを紹介します。



           画像提供 八幡書店 無断転載禁止

右が佐々木照山ですが、年齢は30代前半と思われます。




1920年代(1927年前後)ニューヨークにて 撮影 鈴木らかん清作
「らかんスタジオ」 鈴木育男氏蔵  画像提供 らかんスタジオ 無断転載禁止


こちらは1927年前後ですから、照山55歳頃ですか、30代と同様豊かな髭を蓄えています。照山は髭にはこだわりと自信があったようで、大正時代(この写真が撮影された十数年前)には髭コンクールを開いたりしているようです(参照)。紹介したブログで述べられているように、この頃には探検家の菅野力男の援助などをしていたようです。また、照山は、1910年(明治43年)に結成された南極探検隊のための後援会が組織された際、幹事の一人として名を連ねているということです(参照)。そういったことから、時折海外に赴いていたのでしょうか。どちらにしても、晩年の照山の風貌は胆が据わっていて、今の政治家には見られないスケールの大きさを感じます。



佐々木照山による「寒」という字の解説の続きを少し付け加えようと思います。照山の解説では、湧水のある所に寒字形の祠堂を建て、水神を祭る神事を行う際には、それを執り行う人は上半身は正装するが、下半身は裳袴などは付けず、跣足(はだし)だったということから、寒字形の祠堂の前で儀式を行う人は下半身が寒い恰好なので「さむい」という字にこれが当てられたとしています。それに因んで、照山はその寒字形の扉の内殿で奏する音楽をカングラと云うとしています。これは神楽(かぐら)のことです。また、そのカングラ(神楽)を奏する際の装束を保管しておく部屋をカングヤと云い、楽屋のことだとしています。重ねて、そのカングヤ(楽屋)の扉の戸をカクシ(格子・こうし)、神楽を行う巫女(みこ)をカングラメ(神楽女かぐらめ)であるとし、それらの元となっているカングは「寒カング」であるというのです。観音開きの扉が格子戸になっているのもこのことから由来しているとしています。
さらに、この格子戸は上の説明のように、水宮に取り入れられているのを元としていて、ムルヤと呼ばれていた。それが後にムロヤとなったとしています。ムロヤのムロは室
(むろ)のことです。室という字は、土に穴を掘って造った部屋のことで、こういった謂わば洞窟は、入口が狭くて内部を広く造るものなので、入口には格子戸を取り付けるのが古制であったとしているのです。この形式は時と所を移して、器財を保管する所になったが、これが日本にもたらされたものが塗籠(ぬりごめ)であるとしています。後にはこの塗籠は略奪結婚の予防としても使われたということで、これを室女と称したのだそうです。このことを蒙古(現在のモンゴル)語で格格(コーコー)と云うそうですが、照山は、これは長州(山口県)で云うところのゴウゴウ(室女の尊称)のことだとしています。
これに関して、紀貫之が古今和歌集仮名序で例として取り上げている古歌

たらちめの おやのかふこの まゆごもり 
いぶせくもある かいもにあはずて

から、「かふこのまゆごもり」を示し、この「かふこ」は蚕(かいこ)のことで、「まゆごもり」は繭籠りであるとし、照山はこの歌ではカフコの音にゴウゴウを掛けていることは疑いようがないとしています。また、竹取物語でも「かぐや姫」のカグヤの音に室女を響かせているとし、竹取物語の巻首にいと幼ければ籠に入れ養う
とある籠(こめ)は、塗籠のことであるとしているのです。この「籠め」は、日本最古の歌とされる素戔嗚尊(スサノウノミコト)が詠んだ
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を
の「妻ごめ」の「ごめ」(籠め)だとし、これらは子供を元の親から、あるいは他人から奪い取られないように格子造りの土蔵に入れていたとしているのです。



佐々木照山と同時代の木村鷹太郎は、照山の「片仮名は漢字から作られたものではなく、その逆である」という説を高く評価していますが、照山の至らない点も鋭く指摘しています。それは、照山の説は鷹太郎の専門分野であるギリシャ語に及んでいないので、牽強付会に陥っているというのが主なものですが、鷹太郎の説に目を通してみると、その牽強付会ぶりは照山より強烈な印象を受けてしまうのです。何しろ、日本の古代史は古事記・日本書紀の記述はもちろん、邪馬台国も地中海沿岸の国々が舞台となっているのです。
つまり、古代日本は地中海一円にあったというのです。これは、ギリシャ神話と日本の神話がよく似ているということもあるようですが、照山の「片仮名は漢字から作られたものではなく、片仮名から漢字が出来上がっている」ということと同様に、鷹太郎は「ギリシャ神話は日本神話が元になっている」というのです。ギリシャ神話と日本神話に共通点が多いというのは、これまで多く指摘されていることですが、同様のことは、現在でも、たとえば縄文土器は世界最古の土器であるので、縄文文化が世界に広まっていったのであるという説もあります。また、昭和の後半以降、鹿島f氏による優れた研究もありますが、その説では、青銅器はタイのバンチェンからオリエントに伝わった可能性もあるということも含まれています。
鹿島fによると、中国の古代史は古代オリエント史の写しであり、日本の古代史はその中国の歴史を写しているというものです。その結論を得るまでの、氏の綿密で広範囲に及ぶ研究は瞠目に値するもので、また、その柔軟な思考と勇気ある行動はアカデミックな学者さんに見習ってもらいたいと、ついつい思ってしまうのです。因みに、木村鷹太郎の著書「日本太古史」は1931年にドイツで、翌年にはロンドンで各国の言語で翻訳刊行され、評判になったということです。

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