ゲーテとの対話について

ゲーテと親交のあったエッカーマンという人物が書き著した「ゲーテとの対話」という本の中から、音楽と芸術に関する記述を抜き出したものが引越しの荷物を整理していたら出てきた・・。
これは著者のエッカーマンが20代の頃、晩年のゲーテ
(70代の頃)との10年ほどの親交の様子を書き留めたものとされるもので、
日本語にも訳されて上・中・下三巻で出版されています。今はもう
手許には持っていませんが、その中から抜き出しておいたものを
ちょっと紹介しておこうと思うのです。『 』内は私の書き入れ。


1823年10月24日 金曜日
(ゲーテ74歳)
夕方、ゲーテの館で。
この夏、マリーエンバートでゲーテと知り合いになったシマノフスカ夫人が、ピアノに向かって即興の曲を弾いた。ゲーテは、うっとりと聞きほれていたが、時折、はげしく感に打たれ、心をふるわせている様子だった。


1825年4月14日 木曜日
やがて参事官のシュミットがピアノに向かい、ベートーベンの作品を演奏した。皆熱心に聴きほれていた。一人の機智のある婦人が、ベートーベンの人物論を、面白おかしく話して聞かせた。そうこうするうちに10時となっていた。この夜は私にはこの上なく楽しいものであった。


1828年10月8日 水曜日
食事が終わった後で、オルデンブルク王子たちが、刺を通じられた。私たち一同は、二階へ上がり、ゲーテ若夫人の部屋へ行った。そこで、アグネス・ティーク嬢がピアノに向かって「野をしのび行く
猟夫われ」云々という美しい詩をすばらしいアルトで歌ったが、その情景の精神そのままの歌いぶりだったので、まったく独特な忘れがたい印象を与えた。


『1829年のある日、エッカーマンが読んで感動した物語をオペラにして劇場で見たいものだとゲーテに話すと、ゲーテは「演出が良ければ、決して悪くはないだろう。」と話を進め、これに対しエッカーマンは「私は、もう台本をこしらえて、配役も決めてあります。」と応えるのです。そして、このオペラの曲は誰にやってもらえばいいでしょう、と言うエッカーマンに答えて、ゲーテは次のように言います。』
「ライヒャルトにやらせればいい。もちろんその音楽はすばらしいものになると思うが、ただ、あの、時代遅れの楽器編成ではやや弱いな。少しこの点に手を加えて、楽器編成をもっと強化充実させなければいけない。私の歌曲は、この作曲家の手によって全くいいものに出来上がった。」






『1797年頃、ゲーテはマイヤーと共に、造形美術の対象について多くの考察を進めていたということで、そのことに言及したエッカーマンに対してのゲーテの言葉』・・「対象より重要なものがあるだろうか。対象を抜きにしてテクニックをどんなに論じても仕方がない。
対象がだめなら、どんな才能だって無駄さ。近代の芸術がみな停滞しているのも、まさに近代の芸術家に品位ある対象が欠けているからだよ。そのことで我々も皆悩んでいる。私だって自分の近代性ということを否定できはしないからね。この点をはっきり自覚している芸術家なんてほとんどいないよ。何が自分の心の安定に役立っているのか判っていないのだね。例えば、彼らは私の「漁夫」

(ゲーテの詩の題名)
をもとにして絵を描いたりするのだが、あれがおよそ絵なんかになるものじゃないということを考えてもみないんだ。あの詩は、ただ水の感じ、つまり、夏にわれわれを水浴に誘う
あの優美な力というものを表現したものにすぎない。それ以上のものはあの詩には何もないのに、どうしてそれが絵になんかなるだろうか。」


1823年のある日、「夕方、ゲーテのところですばらしい音楽を聴いて、芸術の醍醐味を心ゆくまで味わった。ヘンデルの「メシーアス」の一部が演奏されたのだが、エーバーヴァイン指揮のもとに、
数人のすぐれた歌手により渾然一体となって合唱された。」


「ひとつ君に絵を見せてあげよう。これは現存するドイツ最高の
画家といわれる人物が描いたものだが、芸術の法則の第一条に対して大変な過ちを犯していることが一目で判るだろう。個々の部分はなかなかよくできているが、全体がしっくりしまい。この絵をどう考えるべきなのか、君にもわからないだろうね。しかもそれは、この絵を描いた大家が十分な才能を持たないからではなくて、才能を導くべき彼の精神が、その他の擬古趣味の画家たちとの頭と似たりよったりで、すっかり曇っているからなので、その結果、彼は
完璧な巨匠たちのことは無視して、不完全な先輩たちの方へ逆戻りしてしまい、後者の方を範としている始末なのだ。ラファエロとその同時代の画家たちは、偏狭な作風を打ち破って、自然と自由とに向かって突き進んだのだ。今の芸術家たちは、神に感謝して
謙虚にこの長所を利用して、その優れた道をさらに歩みつづけていくべきだのに、彼らはそれをしないで再びもとの偏狭さに逆戻りしているのさ。こいつはひどすぎるよ、この頭の曇り具合はどうにもわからないね。今ではこの芸術それ自身の道に拠りどころをもたないものだから、宗教だの、党派だのにそれを求める始末だ。」






『ゲーテ続けて曰く』 
「芸術には、すべてを通じて血統というものがある。巨匠をみれば、つねに、その巨匠が先人の長所を利用していて、そのことが彼を偉大にしているのだということがわかる。
ラファエロのような人たちが土台からすぐ生い育つのではない。
ちゃんと、古代、及び彼ら以前につくられた最上のものの上に立脚しているのだ。その時代の長所を利用しなかったら、彼らが大したものになるわけがない。」


1827年1月12日日曜日 夜
ゲーテのところで音楽の夜会があった。エーバーヴァイン一家と、それに数人のオーケストラの団員とで行われた。数少ない聴き手のなかには、プロテスタント管区総監督のレーア、枢密顧問官フォーゲル、その他二、三の夫人がいた。ゲーテはある若い有名な作曲家
(メンデルスゾーン)の四重奏曲を聴きたいと望んでいたので、まずそれが演奏された。12歳のカール・エーバーヴァインがピアノを弾き、ゲーテを非常に満足させた。その四重奏はどの点からみても実に見事に進んでいった。
「技術と楽器構造が極度に発達して、最近の作曲家たちをどこまで引きずっていくものか、不思議な気がするね」とゲーテは云った。「彼らの仕事はもう音楽の域に留まっていない。人間の感覚の水準を超えてしまって、こういうものにはもう自分の精神や心ではついていけないところがある。私にはすべてが耳にひっかかって、まだそのままガンガンいっている」 ゲーテは続けて、「アレグロには性格があったね。あの永遠の渦と旋回はブロッケン山の魔女の踊りを彷彿とさせたよ。それで私は、あの不思議な音楽から想像して、一つの場景をありありと見たわけだ」と口にした。
しばらく休憩して、談笑や茶菓に時を過ごしてから、ゲーテはエーバーヴァイン夫人にリートを二三曲歌ってほしいと所望した。彼女ははまず、ツェルターの作曲による歌曲「真夜中に」を歌って、実に深い感銘を与えた。ゲーテは「この歌はいつ聴いても美しい。聴くたびにそう思う。メロディーに、永遠な、いつまでも揺るがない何かがある」と云った。
続いて、マックス・エーバーヴァイン作曲の「漁する女」から二、三曲歌われた。次に歌われた「魔王」
(ゲーテの詩にシューベルトが曲を付けたものが有名だが、このときはエーバーヴァイン自身が作曲したものが演奏されたのだと思われます)はもう、待ってましたとばかりの喝采を得た。そらからアリア、「お母さまに言いました」を聴いて、この作曲は誰も他に考えられないほどぴったりしたいいものだ、と皆口々に云った。ゲーテ自身も非常に満足していた。
このすばらしい夜の最後に、エーバーヴァイン夫人は、ゲーテの乞いをいれて、「西東詩集」のいくつかの歌を、彼女の夫の有名な作曲によって歌った。ゲーテはエッカーマンに云った。「エーバーヴァインはね、ときどき自分以上の力を出す人だよ」
それからゲーテは「おお、きみの濡れた翼のまわりに」の歌を所望し、これも同じように、極めて深い感動を呼び起こしたのだった。
『会が終わってからも、エッカーマンとゲーテは二人きりで残っていて、そこでゲーテは、こう口にするのです。』
「今夜、私はこういうことに気が付いたのだよ。エーバーヴァイン夫人が歌ってくれたあの「西東詩集」のなかの歌は、私にはもう何の関係もない。あそこに込められた東洋的なものも、また情熱的なものも、もはや私の内部で生き続けることをやめてしまったのだ。
ただもう道端に脱ぎ捨てられた蛇の皮のように残っているだけさ。その反対に、「真夜中に」の方は、まだ私とのつながりを失っていない。あれはいまだに私の生きた一部だし、私とともに生き続けている。






1830年 2月3日 水曜日
ゲテーのところで食事。
この日はモーツァルトについて話をした。ゲーテ曰く「モーツァルトが7歳の少年のとき、彼を見たことがある。ちょうど彼が旅行の途中で、演奏会を開いた折だ。私自身は14歳ぐらいだったと思う。髪を結び剣を帯びた彼の幼い姿は今もまざまざと覚えている。」
『エッカーマンはその話を聞いて、子供時分のモーツァルトに会ったことがあるほどゲーテが年老いていたことを知り、何か奇跡を見ているような気がしたと述懐しています。』


1822年 10月1日 火曜日
ゲーテ宅の夜の茶会に出席。
列席の人々の中には、法務長官フォン・ミュラー氏、ポイツァー局長、シュテファン・シュッツェ博士、参事官のシュミットもいた。
シュミット氏がベートーヴェンのソナタを二、三曲弾いたが、まれに聞く完璧な演奏だった。ゲーテとゲーテ夫人のくつろいだ話も、私にはとても楽しかった。若々しく朗らかな夫人は、やさしい気性とともに、きわめて豊かな才知を備えた人である。


1822年 11月5日 火曜日
ゲーテのところで夜の茶会。
出席者の中には、画家のコルベもいた。彼の手になるすばらしい出来栄えの大作が、一同に披露された。ドレスデン美術館に所蔵されているティツィアーノのヴィーナスを模写したものだった。
この夜は、フォン・エッシュヴェーゲ氏や、高名なフンメル氏も顔を見せていた。フンメルは1時間ほども、ピアノに向かって即興の曲を弾いた。力のこもった天分豊かな演奏で、直接聴いた人でなければ想像もつかないほど、すばらしかった。彼の話ぶりも、飾り気がなく自然で、彼ほどの大変著名な巨匠にしては、著しく謙虚であった。


1831年 2月14日 月曜日
ゲーテと食事。
話がナポレオンのことに及んだとき、ナポレオンの母親のことについてゲーテはこのように語った。「彼女が次男であるナポレオンを生んだときは18歳であり、夫は23歳だった。だから両親の若い力が彼の身体によい影響を与えた。彼が生まれた後、彼女は3人の息子をもうけたが、みな生まれつき資質がよく、世事にたけ、活動的である上に、多少の詩才を持っていた。むろん才能は遺伝しないけれど、土台にはりっぱな身体を必要とするのだ。しかもそのとき、長男であるか末っ子であるか、また、生まれたとき両親が元気で若かったか、年をとって弱っていたかということは、決してどうでもよいというわけにはいかない。
『それに続けてエッカーマン曰く』 「おもしろいことは、すべての才能のうちで、音楽の才能が最も早くあらわれることです。ですから、モーツァルトは5歳で、ベートーヴェンは8歳で、そしてフンメルは9歳ですでに、演奏や作曲によって周囲の人たちを驚かせています。」
『それに対してのゲーテの言葉』 「音楽の才能が、たぶん最も早くあらわれるのは、音楽はまったく生まれつきの内的なものであり、外部からの大きな養分も人生から得た経験も必要でないからだろう。
しかし、モーツァルトのような出現は、つねに説き難い奇跡であるにちがいない。けれども、もし神が時として我々を驚かせるような、
そしてどこからやってくるのか理解できないような偉大な人間にそれを行わないならば、神はいったいどこに奇跡をおこなう機会を見出すだろうか。」






1825年3月22日 火曜日

夜12時を過ぎた頃、半鐘の音に眠りをさまされた。
劇場が火事だ!という叫び声がした。私はとっさに服を着込んで
現場へ駆けつけた。あたりの混雑ぶりときたらひどかった。
つい二、三時間前まで、カンバランドの「ユダヤ人」が上演されていて、ラ・ロッシュのすばらしい演技に私たちは酔っていたばかりであった。そして、ザイデルは上機嫌で冗談を飛ばして、大方の笑いをひき起こしていたのだ。その精神的な楽しみを味わったばかりのその同じ場所で、今は恐ろしい破壊力が荒れ狂っているのであった。
火事は暖房が火元で、平土間で燃え上がったらしい。消火器具は完備していて、劇場はしだいに消防ポンプに取り巻かれ、炎に向かって水がたっぷりかけられたが、まったく手の施しようがなかった。
カール・アウグスト太公が陣頭指揮を取って懸命の消火活動が行われたが、やがて、彼は建物自体は助からないと判断したようで、延焼しないように劇場は打ち壊して、消防ポンプは隣家の方へ向けるように指示を出した。


1825年 3月24日

ゲーテのところで食事。話題はもっぱら劇場の焼失でもちきりだった。ゲーテ夫人とウルリーケ嬢は、古い劇場で楽しんだ思い出にふけっていた。ゲーテは云った。「大切なことは早急に気を取り直して、できるだけ早く再起することだね。私ならもう来週には興行を再開させるだろう。お城だろうと市役所の大広間だろうと、どこだってかまわない。あまり長く休演にしていては、大衆は夜の退屈しのぎにきっと別の楽しみを探し出すからね。」
「今度の火事は、私にはとても不思議なのだ。ここだけの話にしたいのだが、この冬、長い時間をかけて、私はクゥドレーと一緒に仕事をした。ヴァイマルにふさわしい実に見事な新劇場の設計図を作ったのだよ。私たちは、ドイツで最も勝れた二、三の劇場から平面図と断面図を取り寄せて、その中から最良の部分を採り、悪いと思われる部分を捨てて、これなら人に見せてもいいという設計図を仕上げたのだ。太公のご認可さえおりれば、いつでも建築に取りかかれる。今度の不幸を前に、こうやってすっかり準備をしていた格好になっていたのは、たいそう不思議に思われるのだよ。」






『1825年にヴァイマルで起きたオペラ劇場の火災について少し触れましたが、当時こうした劇場の火災というものは時折起きていたようで、ドイツ(プロイセン王国)では1802年にはシュトゥットゥガルトの劇場が、また1817年にはベルリンの劇場が火事になっています。
ゲーテの「あまり長く休演にしていては、大衆は夜の退屈しのぎにきっと別の楽しみを探し出すからね。」という言葉から、オペラは当時のヴァイマル市民の楽しみの一つであったということがよく判るのですが、これは同時代のヨーロッパ各地では同じような状況だったようです。18世紀後半から19世紀にかけて、ヨーロッパ全土で大きく歴史の流れが変わるわけですが、それまで権力を握っていた王侯貴族の存在が危うくなり、フランスでの市民革命を皮切りに各地でこうした革命が起こっていったのです。そうしてそれが一段落すると、生活の余裕のできた市民たちは上流階級と同じような楽しみを求めるようになっていくのです。こうした楽しみの一つがオペラだったわけで、当時たいへんな人気を博していた作曲家でありオペラ作家でもあるドイツのヴァーグナーなどは、市民だけでなく当時のバイエルン国王のルートヴィヒ二世も深く傾倒していたということです。当時、ドイツ統一のために尽力していたビスマルクは、最後まで抵抗していたバイエルンに対し頭を痛めていたようですが、
ヴァーグナーを経済的に保護したり、また、彼の音楽に影響を受けてなのか、幻想的な宮殿や城を建てたりと、こうした浪費を続ける国王ルートヴィヒ二世を懐柔するために多額の年金を保証することまでしたということです。
1886年、国王の奇行に困り果てたバイエルン政府は、国王の
精神に異常があると一方的に宣言し、ミュンヘンにあるシュタインベルク城に幽閉してしまうのです。その三日後、国王は付き添いの医師といっしょに湖上で謎の死を遂げていたということです。
この時にたまたまドイツに留学していた日本人、森鴎外はこの事件を題材にした「うたかたの記」を書いた、ということは有名な話です。
ところが、皮肉なことに、ルートヴィヒ二世の浪費癖で建てられた
ノイシュヴァンシュタイン城やリンダーホーフ宮殿は、今では世界中から観光客が訪れ、バイエルンの大きな観光収入になっているということです。』






『ゲーテは1832年 83歳でこの世を去っていますが、1831年には、同じくドイツの大哲学者ヘーゲルが死去しています。こうしてみると、18世紀から19世紀にかけて、カント、ヘーゲル、フィヒテ、
シェリング、と、ドイツに於いて次々と偉大な哲学者が輩出されたのは、何かの計らいがあったとしか思えず、これは偶然ではないような気がするのです。ルネッサンス時代
(14〜16世紀)にイタリアを中心に優れた芸術家が多く輩出されたように、ドイツでは観念論哲学が勃興した。音楽家として大バッハがその幕を開け、そしてゲーテは哲学者、文学者として、また科学者、政治家として活躍し、最後の幕を閉じたとも云える。こうしたドイツの勢いの原動力は何だったのでしょうか。
ルネッサンス時代にイタリアを中心に起こった同様の現象の原因を、歴史の専門家は様々に考察しているようですが、その元祖といえるスイス生まれの歴史家ブルクハルトは、現在一般的になっている「ルネッサンス」という概念を定着させたことで知られています。
その研究論文は1860年に出版されていますが、その論文の主旨は、イタリアのルネッサンスという時代は、それまで人間性を抑圧してきた中世の束縛から人間精神を解放し、個の自由が発揮された。また、近代文化の基盤が確立され、世界と人間について近代的な理解の出発点が得られた、そういった時代であったというものです。
これは一口に云えば、それまで絶対的権威をもっていた キリスト教教義に反旗を翻したとも云えるわけで、ダ・ヴィンチ・コードで今話題のレオナルド・ダ・ヴィンチも明らかに当時の教会の権力に逆らっています。明らさまにそれを行えば宗教裁判にかけられ、下手をすれば死刑になる、だからそれは慎重に行う必要があります。
彼が鏡面文字を使っていたというのもその一つの工夫かもしれません。個の自由が発揮されたといっても、ガリレオの地動説の例をみるまでもなく、教会の教義に反することであれば、そのことで
裁判にかけられたのです
(ガリレオは無期刑に処せられている)
余談になりますが、中世
(14世紀)にヨーロッパ全土を襲ったペストの大流行で、ドイツでは死者が人口の3分の1に及んだということです。そういった暗い社会情勢を払拭したいとの人々の願望も要素としてはあったのかもしれませんが、ルネッサンス時代のドイツ
(当時は神聖ローマ帝国)
では他のヨーロッパ諸国のように盛んではなかったようです。それはおそらく、たとえばイタリアのように当時の最先端の経済活動で巨万の富を築きあげたメディチ家のような、所謂パトロンの存在がなかったからかもしれません。また、イタリアではそのような権力者もユニークな人物が多かった。当時のドイツはキリスト教教会の支配下にあったとも云え、1517年からマルチン・ルターが宗教改革を行ったことをみても明らかなように、形骸化した教会側に、芸術、文化を大きく花開かせるような力と情熱はなかったのかもしれません。
18世紀後半から19世紀にかけてフランスを皮切りに起こった
市民革命の余波は当然ドイツにも及び、ドイツではそれが凝縮され
まさに疾風怒涛の勢いで進んでいったのです。
長い神聖ローマ帝国の時代
(10世紀〜17世紀)が、18世紀からあっという間にプロシア王国、そして統一ドイツへと移り変わっていきました。その、時代の勢いに応ずるように冒頭に上げた多くの偉人たちが輩出されたのです。』



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